日本の国際化と国民化教育(平成20年)

日本の国際化と国民化教育

1.孤独で不安な社会

 本年(平成20年)3月21日の新聞によると、今日の日本人社会は、7割もの人が、他人や企業を信用できず、不安を抱いているそうである。

 某新聞社の社会意識調査によると、政治家と官僚に対する信用度は、なんと18%しかない。そして、治安を担う警察官は63%、教育者である教師は60%しか信用されていない。

 社会意識の弱くなった今日の日木人は、「他人(社会)の役に立とうとしている」人が僅か22%と少なく、「自分のことだけ考えている」という人が67%を占めている。

 このような不信社会でも家族には97%の人が信用を寄せている。しかし、家族を結びつけるものは「精神的なもの」が一番多く、次が「血のつながり」だそうである。

 私たち日本人は、不信社会では自然的に犯罪が多くなり、多くの人々が孤独で不安になりがちなことを、まだ十分には理解できていない。

 

2.独自性のない国際化

 この地球上のいかなる部族、民族、国家も、有史以来いろいろな戦争を繰り返してきた。残念なことに今もまだ地球上の各地で戦争は続けられている。幸いにも日本だけは、もう60年余も戦争のない平和で豊かな国で、しかも、教育施設の普及率は世界一である。

 社会は、個と集団が対立するものではなく、いかなる個人も集団的規定なくしては存在し得ないものだが、戦後の日本は、社会の大義を失って、社会を守る社会的目標のない利己的な教育が続いた。

 一方、米国の支援があったこともあるが、戦前の教育を受けた人々が中心になって、日本の伝統文化的特長である勤勉、正直、組織力によって逸速く経済的復興を達成し、やがて世界第二の経済大国に発展した。そして、米国化の経済的国際化に尽力した。

 米国方式の経済的国際化、すなわちグローバライゼーションは、“科学・技術”の進歩によって起った“IT革命”による、コミュニケーションの飛躍的な発展によって、一層拍車がかかった。しかし、経済的国際化は、いかなる国の人々にとっても生活手段であって、社会的目的ではない。

 ところが戦後教育を受けて社会意識の弱くなった日本人は、経済的国際化には邁進したが、肝腎な自国の安定・継続に必要な、社会の後継者育成である国民化には無頓着で、半世紀以上も米国式民主教育をそのまま続行し、信頼社会であった日本の独自性を失った。

 

3.国民化を忘れた日本人

 民族とは人間の形質的特徴ではなく、生活文化を共有する人々の集合体のことである。

 戦後の日本で生まれ育った日本人の多くが、伝統文化否定の名残のせいで教えられなかったこともあり、社会的遺産としての生活文化を共有することの重要性を知らず、利己的・個人的になっている。

 その結果、日本人社会にとって最も重要であった信頼や絆が揺らぎ、十数年前から不祥事が多発するようになった。

 3~40年前までの日本では、両親が日本人なら自然に民族的日本人になれたが、今日の国際化した不信社会では、日本で生まれ育った日本人が日本を知ることなく、自然に社会的日本人、すなわち国民になるとは言えなくなっている。

 私たち日本人は、社会、国にとって最も大切な生活文化を共有する社会化・国民化を忘れ、知識・技能を中心とする個人的学力主義を追い求めているが、社会人としての栄辱を弁えていない人は、協調性や忍耐力、向上心、信頼感が弱く、主体性を失ってフリーターやニート、引きこもりになりやすい。

 

4.安全・安心に必要な国民化教育

 地球上の多くの国、特に移民によって成り立っている米国は、多民族、多文化、多宗教の国民国家である。世界の国民国家の大半は、民主主義的議会政治によって国家の統合を第一目的としている。そして、スムーズな統合の手段として“多文化主義”を採用している。

 世界の中では大変珍しい単一民族的国家に近い日本は、戦後、米国式の多文化主義を取り入れたが、すでに統合が成立していたし、やがて安定した国民国家にもなった。しかし、米国を筆頭とする多くの国は、今もまだその途上にあって貧富の差が大きく、政治や経済、教育等の政策は全て統合のためにある。

 地球上の至る処で今もまだ起きている宗教や文化の違いによる紛争や、エネルギー・環境・食料・人口問題、それに米国経済の失速等、これからの多様化する国際情勢に対応するには、まず日本国の活力・安定・継続を図る国民化教育が優先課題である。

 そのための公教育は、青少年時のためのみではなく、社会人としての主体性・アイデンティティーを促す内容が必要である。

           機関誌「野外文化」第196号(平成20年4月16日)巻頭より

日本人の国際化と国籍(平成8年)

日本人の国際化と国籍

1.国際化に必要な国籍

 私たち日本人は、“国際社会において、名誉ある地位を占めたい”と思っているのか、“国際化”という言葉が好きである。

 国際化には、個人的と社会的があり、また、経済的、文化的、政治的などもあるが、いずれにしても、主体的か従属的かによって形が大きく違ってくる。

 個人的に、従属的国際化を望むならば、好きな国へ移民すれば可能だが、主体的ならば、大変な努力と忍耐力が必要で、容易なことではない。

 社会的に、従属的な国際化を望むならば、諸外国に文化的、経済的に従って政治的小国になれば比較的容易だが、主体的国際化を望むならば、諸外国に理解してもらう努力と工夫と貢献が必要である。

 個人的に国際化を望むには、どこかの国民としての権利と義務を負わない限り、いかなる社会からも受け入れられない。いかなる人も国籍を持たない限り、国際的な活動をすることは出来ない。国際化と国籍は表裏一体であるが、日本ではあまり理解されていない。

 

2.半独立国日本

 今日、公務員の国籍条項を撤廃せよとか、地方分権、それに国際化などが叫ばれているが、これらは、戦後50年間も潜在的に続いている、アメリカ合衆国の占領管理的政策の具現である。

 日本は、昭和20年8月15日に無条件降伏して以来、アメリカ合衆国を中心とする連合軍の占領下におかれ、昭和22年5月に憲法が制定されたが、その中には日本人や日木語の規定はない。あるのは、日本国民が世界の人々と仲良く暮らしていくための必要条件である。

 日本は、昭和27年4月28日に“サンフランシスコ平和条約”が効力を発生することによって、形式的には独立したが、国家の骨格をなす憲法はそのままである。日本政府は、これまでに憲法の“是非”を国民に確かめたことはなく、単独講和的な安保条約によって、アメリカ合衆国の傘下に置かれている。そのせいか、文化的、社会的な違いを乗り越えて、ひたすらアメリカ追随に努力してきた。

 そして、今日にいたっても、親離れできない子供のように、戦後まもなくのアメリカ知識人達か望んだ日本国のあり方とも言える、国籍無用や地方分権、国際化などを理想的に描く努力を続けている。それはまだ半分しか独立しえていないからだ。

 

3.経済大国の論理

 憲法第九条②「国の交戦権は、これを認めない」としている日本は、アメリカ合衆国の保護のもとに、平和で、豊かな社会づくりに邁進してきた。私たち日本人は、豊かになる条件を満たすためには、国も文化も誇りもそれほど重要視はしなかった。

 与えられた民主主義社会日本の政洽家たちは、外交や内政を経済活動の一環と考え、日本国のあり方を真剣に論議する重要性を無視しがちであった。官僚の多くは、そうした政治家をうまく操って、自分たちの省益や権益を拡大することに努め、公益的配慮を弱めていた。そして、国家的共通性を見失った国民の経済活動は、個人的利益の追求であった。その結果、独立国としての外交権を駆使しようとしない政府のもとで、自由と権利を謳歌する国民が、理想の平和国家を今日まで追求することができた。

 占領下で制定された憲法金科玉条とする日本国は、他国との共生を願って、主張せず、争わず、アメリカに見習い、国際的義務と責任を負わず、自由に経済活動が出来る利益追求型の、政治的小国の論理で成り立っている。

 

4.国民は多様な日本人

 憲法第十条「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」

 憲法第二十条②「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」

 憲法には日本国民の規定はあるが、日本人の規定はない。日本国民と日本人の違いをはっきりさせないことには、主権国家の公務員になるために、国籍が必要なことを理解することは出来ない。

 日本国民には、両親を日本人とする民族的日本人と、日本国に住み、日本の風習や言葉を理解し、社会の義務と責任を果たしている社会的日本人がいる。

 私たちにとっての日本人とは、民族的日本人のことであるが、日本国憲法によれば、社会的日本人をも含めるのである。

 単一民族的社会に生まれ育った、馴合い社会の民族的日本人は、あるがままの社会という関わり方でしか判断しない習慣があったが、今日では、社会の必要条件を共有する社会的日本人になる必要に迫られている。

 例えば、中国には56の民族が住んでいるが、民族的中国人は1人もいない。漢族や蒙古、朝鮮、チベットウイグル族などはいずれも社会的中国人であり、皆中国国民である。

 これからの日本国民には、朝鮮族系日本人、漢族系日本人など、多様な日本人がいても構わない。しかし、彼らは日本国籍を持たない限り、外国人なのである。

 国際化する日本国政府がまずしなければならないことは、国籍条項撤廃ではなく、“国民とは社会的日本人である”と規定することではあるまいか………。

             機関誌「野外文化」第142号(平成8年6月20日)より

世界の中の日本(昭和49年)

世界の中の日本

 人は誰でも父母と故郷と祖国を持っている。中にはかつてのユダヤ人のように放浪の民もあったが人間誰しも、自分の安住の地を求めんと努力する。その努力が生きることの苦難と闘うエネルギーでもあるはずだ。

 故郷である大地、祖国である大地、その大地に両足を踏張って、隣人と共に生きることこそ心の平和をかち取るものではないだろうか…。物質の豊かさに明け暮れ、最も大事な安住の地を守る努力と協力をなくすれば、その人は帰る大地を失った精神的放浪者にならざるをえない。

 何の義務も責任もなく、気の向くまま、好きなところに自分の存在を確認する理想郷を求める人は、理想郷とはいかなるものであるかを知るべきだ。たとえ自分が理想の大地だと思っても、自分以外の人間がその場にいれば、必ず自分の大地、自分の安全を願うであろう。そこにはすでに、義務と責任が存在する。そして、その人は初めて、人間社会の理想と、生きることの現実の差を痛感する。

 人間は紀元前ギリシアの哲人、ソクラテスか悩み、考えた時代と内面的には殆んど変っていない。ただ、自分の欲望を満す外的要因すなわち、物質とのかかわりあいだけが変化したのであって、人間そのものが変化したわけではない。

 私は、この10年間に110ヵ国の国々を自分の足で歩いてみた。そして、各国の歴史、文化、文明、社会、経済機構と人種、宗教、そして、国境の存在を見てきた。その体験の中で、人間は、自己の存在を確認したがる動物であることを知った。自分の祖国、自分の宗教、自分の思考を最善と信じ、自分により忠実に生きている人間に、自分の存在を無視せよ、自分の生存している大地を、自分の信じている大地をなくして、地球上のすべての人類が無我になって、すべてを分かちあうという理想は、あくまでも理想である。その前に人類の各自が自己と自分の存在している大地、地域を最善の努力をはらって、人間社会にふさわしいように発展させることがまず第一歩の理想であるはずだ。

 それを忘れて、自分の足元を見ずして、1キロ先をどうして見定めることかできよう、どうして1キロ先に到達できよう。

 すべての人間が、まず自分を見て、それから5メートル先を、10メートル先を見なから前に向って進むしかないのだが、残念ながら、ソクラテスの時代から、人間は1キロ先を急いで見続けてきて、いつも足元の不安さをなげいている。

 今日の日本の社会的・経済的不安の原因は文明という、外的要因に酔いしれて自分の足元を見ずして、世界のため、人類のためという大きな理想を、さも簡単に実現できるかのように錯覚していたことに原因があろう。

 日本の大地にある日本の各企業が、まず第1に日本の人々のために存在しているのでなければ、日本という、我々の祖国に存在する必要はなかろう。しかも、その企業の労働者・経営者が日本人ならば、その企業の大移動は、地球上のどこの大地も受け入れてはくれない。労働者も経営者も日本人ならば、まず自分たちのための企業の存在を十分認識せねばなるまい。日本の人々に十分なほどこしをしてから、日本以外の人々にもその恩恵を与えていこうとしないならば、どこの国の人々も、その恩恵を偽善とする。

 世界平和は、まず自分の住んでいる大地・祖国を平和に安全にすることであって、物を買い占め、売り惜しみして、故意に物の価格をつり上げて社会の安定・安全を乱すようなことではない。

 私は世界の諸々を自分の目で見、肌で感じたが、私には日本にしか心のやすらぎを求める大地はない。だから私は、かつてのユダヤ人のような放浪の民が、ただ金で安全を求めるような行為はしない。程度の低い文明国ならいざ知らず、文化国家の民は「金がすべて」というユダヤ商法を、全人類のためにも慎むべきではないだろうか。

 地球は狭くなり、文明は発展したが、人間の悩みと苦労と不安と喜びは、もう何千年間も大して変っていない。また、自然環境からはぐくまれる風俗・習慣・地域性もなかなか変化しない。だから私は、自分が日本列島内に棲んでいる限り、日本人としての悩みも苦労も、喜びとして叫ぶが、安住の地としての権利も叫ぶ。そのために、明日の日本が世界的に信用のある文化国家になるよう努力しよう。結局そうすることが人類の世界平和の第一歩であり、日本人の人類に対する義務でもある。

      機関誌「ZIGZAG(現:野外文化)」第19号(昭和49年2月26日)巻頭より

たなばたの原点(昭和58年)

たなばたの原点

 千数百年も続いた年中行事である“たなばた”は、日本人にとって、夢のある家族的な祭りとして、夏のある限り続けられるであろう。

 

1.たなばたとは

 たなばた………誰もが口にし、知っている言葉なのに、まじめに考えると、なんのことかその意味がなかなか理解し難い。たなばたを、“七夕”とか、“7月7日”“棚機”“棚旗”と記すが、一般的には“七夕″がよく使用されている。しかし、七夕をどうしてたなばたと読むのだろうか。

 たなばたのいわれについては何も知らなかったが、大変ロマンチックで、夢の多い年中行事として、幼少年時代の兄弟姉妹の面影と共に、今も残像のごとく尾をひいて脳裡にとどまっている。

 誰もが思いだすことは、少年少女時代、五色のたんざくに願いごとを書き、葉のついた竹枝に結びつけて飾ったことではないだろうか。私は、その竹を七日の夕方、浜辺にかついで行き、海にすてた後、暮れなずむ沖合いを眺め、たんざくを結んだ竹がどこへ流れ着くのか、心配しながら砂浜に座っていたことをよく覚えている。

 どのような理由でたなばたの竹を海に流したのか知るよしもなかった。ただ、たなばたに雨が降ると、天の川の両岸にある牽牛星織女星が会うことのできない物語を聞かされているだけだった。

 七夕は、もともと陰暦7月7日のことであり、その日の行事をも含めていうのだそうだ。しかし、今では陽暦の7月7日であり、中には1月遅れの8月7日に行なう地方もある。

 日本中どこにでもある年中行事のたなばたは、中国の七夕(ひちせき)の祭が伝来し、日本の古代信仰であった、神の来臨を願って作った棚旗、すなわち依り代を作る行事と複合された風習のようである。

 

2.星祭り

 中国古来の節句は、陰暦の一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日の奇数月の重日で、これを五節句と呼んでいる。これらの節句には、星の神々が地上に降りてくると信じられていたので、娘たちは、機織りをして、その技術向上を祈るのが習わしであった。この祈願のための行事を七夕(たなばた)と呼んだのである。

 中国に古くからある七夕の風習から、天の川の牽牛星織女星の物語ができたものと思われるが、中国の人々は、この七夕伝説を好んで伝承したようである。

 「陰暦七月七日の夜、年に一度の逢瀬を天帝に許された織女が、雨の降らない時だけ、天の川にカササギが翼を並べて作った橋を渡って、対岸にいる牽牛に会うことができる」 物語は簡単であるが、夫婦星が見事逢瀬を楽しむことができたなら、その年は洪水がなく、秋の収穫が無事であると信じられ、星祭りには雨が降らないことの祈願がこめられていた。

 このような七夕伝説は、中国で紀元前七世紀頃すでに成立し、4、5世紀頃には、文学上のよい題材となっていたといわれている。女性好みのロマンス物語のせいか、中国の女子は、天の川の織女星を祭って、その技術の向上を願う、乞巧奠(きっこうでん)という行事を好んで行なったという。この風習が奈良時代に輸入されると、日本でも大変好まれたのか、万葉集の中にもうたわれているし、星の祭りとして宮廷に普及したようである。

 

3.日本古来の風習

 たなばたを“七夕″とか、“七月七日”と表記するのは、中国の節句文化の影響であることは理解できるが、今日ほとんど使用されていない。“棚幟”又は“棚旗”にはどのような意味があるのだろうか。筑波大学の宮田教授は次のように説明して下さった。

 「旗は、空中にいる神霊がめざして降りてくる所、すなわち依り代である。もともとは、樹木又は竹であったと思われる。それは、よい神霊だけが降りてくることを祈って、今でも葉のある大きな竹をたてることからもわかる。この神霊信仰が、山から神を招くという意味で、山に行って花を手折ってもち帰り、入口におく“立花”の風習となる。この立花は、棚旗の竹と同じく、神霊を山から迎える儀式用の依り代である。やがて、立花の風習が家の中にもちこまれて“生花”に変化したものだと思われる。」

 棚旗、これが日本古来のたなばたの原点であるらしい。しかも、旗ではなく、大きな竹をたててあったにちがいないという。そして、山から神を迎えるための依り代であった立花が、華道の原点であるらしいこともわかった。

 もう1つのたなばたは、祓いの行事でもあったようだ。ということは七月七日に水浴びをし、女性は髪を洗い、衣類をすすぎ、家具を洗い、井戸をさらって1年のけがれを禊ぐ風習があり、雨が降った方がよいという地方もあるからである。これは星祭りとは関係なく、日本の自然環境からきた風習だと思われる。

 陰暦の6月下旬から7月上旬は、湿度や温度が高く、物が腐敗しやすいので、伝染病なども多く、最もいやな時候である。そのため、古代から人々は、雨か降って川に水が増し、すべての物を押し流してしまうことを願ったのだろう。日本には、川や海に物を投げ捨てると、きれいになるという風習がある。これは、雨が多く、川の流れが早い日本での生活の知恵で、水がすべてのものを押し流し、清めてくれるという概念によるものである。

 棚を作り、背丈の高い竹をたて、守護神である神霊を迎え、雨が降れば周囲の汚物を流し、清めてくれる日本的風習が、中国伝来の、大変ロマンチックな七夕祭りと複合し、日本古来の年中行事棚旗に、“七夕”の字をあてたのがたなばたの呼称のはじまりではあるまいか。

 

4.願いをこめる家族的な祭

 奈良時代に中国から伝来した七夕祭りは、宮廷貴族を中心に伝えられ、機織りの技術が向上することを願うよりも、書道の上達や恋愛の成就などを祈願する風習となったといわれている。それが江戸時代になって、幕府が年中行事にとりあげたので、武家の風習となってまたたくまに全国的になった。そして、やがて、寺小屋の手習い師匠などの役割によって、庶民へも普及した。

 手習いするものが、里芋の葉にたまった露で墨をすり、文字を書くと上達するという習わしから、五色のたんざくなどに、思いや願いを書いて竹枝につるす風習が広まったといわれている。そしてまた、庶民は、たなばたの棚に野菜や果物などの初物を供えることも考えついた。又、地域ぐるみで大規模なたなばた祭りを行なう地方もある。たとえば、仙台市商店街の七夕飾りである。

 現在のたなばたは、子どもたちが願いをこめてたんざくを竹枝に結ぶ、ロマンチックな年中行事となっている。私の思い出にあるたなばたは、今の私にとってのゆとりであり、生きがいであり、活力の原点であり、父母や祖父母のいる故郷なのである。

 千数百年も続いた年中行事である“たなばた”は、日本人にとって、夢のある家族的な祭りとして、夏のあるかぎり続けられるであろう。

            機関誌「野外文化」第64号(昭和58年6月20日)巻頭より

日本の元旦の習わし(平成29年)

日本の元旦の習わし

1.元日の朝

 2017(平成29)年元日の朝、東京は雲ひとつない、突き抜けるように澄み切った青空で、摂氏12、3度と大変穏やかであった。

 午前7時過ぎに起き、まずは神棚に手を合わせ、9時から近くの井草八幡宮へ、自転車で初詣。すでに7、800人が列をなしていたので、30分近くも並んで待った。

 家内安全と健康を祈願し、本年から始める、“健康寿命を延ばす歩く国民運動”の遂行を誓った。そして、1,300円の破魔矢を買い、200円でおみくじを引くと、“小吉”であった。

 我が家に戻って年賀状を受け取り、10時過ぎから家族で、「明けましておめでとう、今年も元気で頑張ろう」と言ってお猪口で酒(おとそ)を飲み、妻の作ったおせち料理と雑煮を食べた。

 5人の子供はみな成人し、家族か集う元旦と言えども、残念なことだが3人は仕事があるとかで帰って来ず、妻と長男、3女の4人だけ。

 普段はあまりしない雑談に花が咲き、11時半までお正月気分の和やかな時が流れた。

 

2.祖霊を迎える風習

 天変地異の自然現象は、天の神による仕業だと考えていた古来の日本人は、自然を魔物、不可抗力、神として崇め、恐れていた。

 その神への使者の役目を、長寿で生命力の強かった先祖の霊が、きっと果たしてくれると考えた人々は、先祖崇拝と言う“先祖信仰”の精神世界を発展させてきた。

 これまでの日本人は、災害を恐れても、共に生きる神の加護を願い、祖霊が神への連絡役を果たしてくれると信じて、天(神)、山(自然)、祖霊(人)が一体化する理念を培ったようだ。

 日本の元旦は、自分たちの先祖を崇拝する祖霊信仰(神道)によるもので、先祖の霊が家に戻り、家族が揃って絆を深め合い、気力や元気を確かめ、分ち合う神人共食の儀式なのである。

 年の暮れに山から戻ってくる先祖霊、年神さまの依り代が、山から切り出してきた門松や松飾りなのだ。そして、家族は、祖霊を迎えて三箇日を共に過ごすため、大晦日おせち料理を準備し、元旦に酒(おとそ)を供え、皆が揃って祖霊神である年神さまと共食をする習わしになっている。

 各家だけではなく、共同体の村や地区である地域社会の祖霊神、氏神の依り代としての神社に、年明け早々に参拝するのが初詣。その意味を知ってかどうか分からないが、今日の日本人の約62%が初詣をするそうだ。

 

3.元日の挨拶

 おせちやお雑煮を食べ、お屠蘇を飲んでご機嫌な私は、12時から1人で散歩に出かけた。

 近くの妙正寺公園に行き、そこから始まる妙正寺川の両岸に歩道があるが、日の当たる左岸(北側)の道に沿って南東の方に歩いた。天気は快晴で風もなく、3月中旬の温かさなので、冬用のシャツの上にセーターを着てのんびりと歩きながら、行き交う人に「明けましておめでとうございます」と声をかけ、頭を下げた。

 杉並区から中野区に入り、区立鷺宮体育館を通り過ぎ、洪水防止用の溜め池のある、“やよいばし”まで4~5キロを歩いた。そこから今度は右岸のウォーキングコースを引き返し、家にたどり着いたのは午後1時40分で、一万二千五百六歩であった。

 この間、約200人に元日の挨拶をし、頭を下げると、相手の反応は様々であった。

 「あっ!おめでとうございます」

 驚きながらも多くの方が言葉を返してくれたが、中には、「あっ!」と驚いて声を呑んだままの人、黙って頭を下げる人、黙ったまま立ち止まり、怪訝な表情で何も言わない人、無反応な人、スマホに夢中な人など色々であった。

 

4.正月行事は生活文化

 元日に散歩して、多くの人に新年の挨拶をすると、約半数の方が、快く「おめでとうございます」と返してくれた。実に気持ちがよく、自分が今、日本で元気に生きていることを実感し、何とも楽しい、平和で幸福な気持ちになった。そして脳裏では、「よし、今年も頑張るぞ」などと、自分を励ましていた。しかし、無反応や無視されると、異文化人のようで、何となく淋しく、不安な気持ちになる。

 歩きながら各家の門や扉を見たが、門松や松飾りのない家が半数近くもあった。

 祖霊を迎える依り代のない家が多くなっていることは、やはり淋しい現象だ。

 日本は、戦後急にアメリカ化して、日本の生活文化を知らない人、異文化人、異教徒か多くなっているが、50%以上になると、社会は不安定化し、衰退する。

 日本人にとっての元日は、初詣もさることながら、家族そろって祖霊神と共食し、絆を深め合うことであったのだが、今日では、門松の意味も知らず、新年の挨拶もなく、1人ぼっちで過ごす人が多くなっているそうだ。

野外文化 第222号(平成29年1月20日)巻頭

お正月の原点(昭和57年)

お正月の原点

 お正月の年神様は大晦日に来臨し、願いごとを聞き届け、1月15日の小正月、ドンド焼きの煙になってお帰りになる。

 

1.年神様と門松

 正月というのは太陰暦の第1の月の別称であり、中国から移入された言葉であるが、日本から東南アジアにかけての稲作農耕民社会には、たいてい新年を祝う祭りがある。しかし、太陽暦になった今日の日本では、太陰暦よりも季節的に40日ほど早くなっているので、新春という意味がわかりにくい。

 日本古来の正月は。太陰暦(旧暦)の早春である年の始めにあたって、神霊の来臨を仰ぎ、その年の豊作を祈る、稲作儀礼が始まりとされている。この祖霊とも穀霊ともいわれる神霊を“年神様”又は“正月様”と呼んでいる。

 年神様を迎える準備として、まず最初、12月中旬頃。家を清くする意味で“煤払い”をする。そして、中・下旬、遅くとも27、8日頃までに、松を山へ切りに行く。これを“松迎え”というが、地方によっては“正月様迎え”ともいう。

 門松は、海や山から来臨すると信じられている年神様の依代なのである。門松は松の木とは限らず、シイやサカキ、ヒノキなど常緑樹が用いられるが、迎えられた木は大晦日までに立てられ、清浄な神域であることを示すため、しめ飾りをつける。そして、山の幸、海の幸と共に、必ず餅をついて供える。これは、これらと同じものを今年も豊かにお恵み下さい、と祈る気持ちを表現したものである。

 昔は、年神様を迎えるために、物忌みをして終夜起きあかすことになっていた。やがて、これが大晦日に、徹夜で神社におこもりして元旦を迎える“年ごもり”となる。そして、更に簡略化され、今日のように、元日の未明に参拝する初詣の風習となった。迎えられた年神様は、三が日の間、人間と同じように扱われ、ご飯や煮しめ、酒などを供えられる。いろいろな節の中で、最も大事な節である正月の、年神様に供えて食べる料理を“おせち(つ)料理”と呼称するようになったともいわれている。

 

2.お年玉の由来

 今日、正月三が日の訪問は、“年始”といわれているが、もともとは先祖まつりのための訪問だったとされている。

 古来、一家一族の本家に集まって、迎えられた先祖の魂祭りに参加し、親や長老を祝う風習があったが、武家社会になって、元日を参賀日と定め、従属者に忠誠を誓わせるようになったといわれている。この風習が一層拡張して、遠くの親族、友人、知人にまで年始の挨拶をするようになったのが“年賀状”である。昔、先祖の霊(たま)祭りに供えられた米が“トシダマ”すなわち米の霊といわれていたという。

万葉言葉で、米のことを“トシ”と呼んでいることは周知のことである。トシは、米だけでなく餅や握りめしを意味する言葉であり、一般に白い“鏡餅”が供えられるようになったとされている。

 トシダマは米(とし)霊(たま)がなまったもので、現在“年玉”と表記されているものと思われる。そのことは、餅を的にして矢を射ると、白鳥になって飛んだという説話からも理解できる。これは、日本から中国の雲南地方にかけてある、鳥は神の乗りものであるという精霊信仰と結びついたもので、白い餅が穀霊の象徴なのである。

 一族の人々が参集し、このトシダマである餅を“海や山の幸と共に煮た餅の吸物を“雑煮”として食べたのは、神に供えた餅を皆で分け合って食べる“直会(なおらい)”であった。

 敬語がついたお年玉は、年神様に供えられた米、もしくは餅が、1人ひとりに分け与えられる賜のことで、それを食べることによって生命力や活力を得ることができる、と思われていた。現在のお年玉は、目上の者からの贈物となり、一般的にお金が使われている。年賀葉書の“お年玉”つきも、こうした風習からきたものである。

 

3.東アジアの正月

 欧米では1年の最も大事な節はクリスマスであるが、精霊信仰のある東アジアは正月である。だいたい正月はどこでも類似しているが、中国は、“かまど神”の祭りが正月行事になっており、20数日間も続く。日本の正月に去来する年神様に類似しているので、平凡社百科事典を参考に、簡単に紹介する。

 各家のかまど神が12月23日に昇天し、玉皇大帝にその家の善悪と功過を報告する。そして、次年の吉凶禍福を授けられ、除夜に帰ってくる。家々では大晦日までに新しい神像を買いととのえ、かまどの近くに年画をはり、門や窓、壁などに“福”と書いた四角の紅紙をななめにところかまわずはる。

 大晦日には、かまど神を歓迎するために終夜灯火を消すことなく、夜明けまで爆竹を鳴らす。この夜、正月用の晴着で、一家そろって先祖の位牌を礼拝する。終ると、幼年者から順に年越しの挨拶をする。この時家長は、子女に紅い紙袋に入れた“お年玉”を渡す。

 元日早々、まず祖先を拝し、かまど神を拝し、老父母を拝してから、男は親戚、友人へ年始にまわり、仏寺や道観に初詣をする。女は5日後からとされている。5日までは毎晩燭を点し、線香をたいて祈る。三が日のおせち料理は、主に餃子やパン、甘い菓子などだそうだ。

 男たちは正月行事として、高脚踊り、竜灯踊り、獅子舞などをして爆竹を鳴らし、大変にぎやかな雰囲気である。

 1月15日は、日本の小正月のように、昨年の五穀豊穣を感謝し、今年の豊年を祈る祭りである。この時は、門前に五色の提灯を掲げ、爆竹を鳴らし、だんごや果物を月神に供え、友人などを招いて春酒を酌み交わしたといわれている。しかし、現在の中国では、太陰暦の正月三が日だけである。

 雲南地方のタイ族は、太陽暦の4月が正月であり、元日には男たちが訪れ合って酒を飲んで歌う。2日目は村対抗の龍船競争をし、3日目は身を清めるための水かけ祭りがあった。

 タイ国北部の山岳民アカ族も、太陽暦の4月10日が元日である。アピュロと呼ばれる正月行事は5日間で、村人全員が飲み、食べ、歌い、踊り、精霊と共に遊び、戯れて大騒ぎすることによって、今年の豊年祈願をしていた。やはり去来する精霊を迎えての祭りだった。

 

4.小正月の神送り

 1月15日は“成人式”となっているが、もともとは小正月と呼ばれる、稲作の豊年祈願が行なわれる日であり、年神様が帰る日である。

 年神様は、蓑を着、笠をかぶり、杖をついているというのが、日本中だいたい同じである。これを具体的にしたのが、九州地方の“田の神”であり、秋田県の“ナマハゲ”や長野地方の“カガシアゲ”である。小正月には“村の子供や青年が、こうした年神様になって、物乞いしながら村々を見て歩く。

 村人たちは、木の枝を半ばまで細長く、薄く削りかけ、花のようにちぢらせた“削掛”や、ヤナギ又はミズキなどの枝に小さなダンゴ餅をいっぱいつけた餅花などを作って安置する。これは、このように沢山稲の花が咲いて、大きな稲穂になったということを象徴するものである。

 また、多くの子供たちが、各家からしめ飾りや門松などをもらい集め、一か所に集めて火をつける。これを“ドンド焼き”と呼び、正月の年神様は、この煙と共に帰っていく。子供たちは、各家からもらった餅をこの火で焼き、煙か高く昇る様子を見ながら分け合って食べる。この体験は、心の中に永遠に燃え続けるふる里の火である。

 ドンド焼きは。火が音高くどんどん燃えて、年神様を元気よくどんどん送り返す子供たちの、未来への熱い願いがこめられた名称ではあるまいか…。

     機関誌「野外活動(現:野外文化)」第61号(昭和57年12月20日)巻頭より

カタカナ姓は異文化(昭和58年)

カタカナ姓は異文化

 日本の過去における帰化人が、数世代後に同化してしまったのは、姓の日本化にあったものと思われる。

 

1.日本人の姓は日本語

 法務省が、カタカナ姓を実質的に許可したことは、7月17日の新聞に大きく報道されていた。

 “キム、ワン、ス、卜、トン、オノン、ランバ、シャイザ、ボーロ、モーガン、モールス、エルゾーグ、ヴェント、ゴードン、トケイヤー、ウリアノフ、ベネディクト、ファニング、ハイメンドルフ、セミヨーノフ…”

 これからはこんな姓の日本人も現われることになるのだろうか。法務省は、昭和23年に民事局長通達として“帰化後の氏名については帰化者が自由に定められる″としているか、今日まで、窓口指導として、日本人としてふさわしいものが望ましいことを伝えてきた。そのため、カタカナ姓はなかったというのだが…。

 昭和23年といえば、日本はアメリカ合衆国支配下にあり、GHQがすべての実権を行使していた時代である。アメリカ合衆国は移民による多民族、多宗教の複合文化の社会で、世界中の諸民族の姓をもった人がおり、社会的統一はされていない。

 古来、日本列島に帰化した人々は多いが、いずれも日本人としてふさわしい姓に改めたので、その末裔はいつの間にか日本人になっている。過去において、国内外の多少の事情で強制した例もあったようだが、世界的な見地からすると成功した方ではないだろうか。

 周囲を海に囲まれた日本は、長い間、自然的な民族居住区と人工的な行政区圈がほぽ同一した社会を維持してきたので、姓は日本語の1部となり、基本的文化ともなっている。

 自然発生的な民族社会は、基本的な文化を共有する者の集団であるが、権力又は経済力によって拘束された作為的な社会は別である。アメリカ合衆国は人工的複合文化社会の代表である。

 

2.共通性と信頼社会

「どんな社会か理想ですか」

 私はこれまでに訪れた世界111ヵ国の多くの人々に質問した。

「信頼できる社会」

「人間が信じられる社会」

 答えは、だいたい類似していたが、「豊かな社会」は少なかった。

たとえ非文明社会に住む人々でも、自分たちがそれほど貧しいとは思っていなかった。

日本人の多くは、社会に対する不信度が、多民族複合社会の人々よりも強くない。ところが、情報量が豊かなせいか、他人と比較する習慣のせいか、豊かさについての欲求度は他民族よりも強い。多民族又は多宗教社会に生活する人人の意識は、まず自己防衛心が強い。そして、豊かさよりも平和に、安全に暮せることを強く望んでいる。           

 社会の基本的文化の共通性の弱い人々は、その社会人から好まれないのが一般的である。過去において、ユダヤ人が好まれなかった例は、個人主義的で、ユダヤの風習を主張したことによるものといわれている。また、社会意識の欠落が、多くの民族に猜疑心をもたせた原因にもなっている。ユダヤ人に知的に秀れた人が多いのは、個人主義的な能力主義によるものでもある。

 民族戦争や宗教戦争のたえることのなかった大陸の人々は、一般的に社会と他人に対する不信の念が強く、自己防衛能力が培われているのだが、日本のように他民族の侵略がなく、宗教戦争を知らない社会の人々は、一種の相互保障的な信頼社会を好み、画一的で、裏切りは御法度になりがちである。

 定住農耕民型の温和な社会に慣れてきた日本人は、信頼と共通性を強く求める風習を培ってきたが、アメリカナイズが進み、高等な文明社会に発展した今日では、社会に対する信頼が弱まり、個人主義的で、営利主義のユダヤ商法に溺れかけている。

 同一民族、同一言語を主張するわけではないが、社会を営むためには最も理想的であり、世界中の国家が望んでいることである。世界連邦を理想とするが、まだ道は遠い。もし世界が一つになったとしても、自然環境が変化しない限り、民族の基本的な文化まで統一することは不可能に近い。

 

3.社会の基本的な文化

 法務省は、国際化が進む中で、やむをえず原則自由の方針の再確認を迫られたというが、いかなる民族も、自然環境に依存の強い基本的な文化の変革を望まないし、自ずから好んで転換することのないのが一般的である。

 日本以外の大陸の諸国は、やむをえず、多民族多文化の社会を営んでいる。これは、長い間の民族や部族闘争の結果、権力や政治力による人工的行政区画によって、国家を成立させたことによるものである。中国、インド、ソ連、イラン、イラク。トルコ。ギリシア、イタリア、スイス、フランス、スペイン、イギリスなど、歴史の古いどの国を例にしても、未だに民族闘争が続けられている。多民族、多宗教の異文化複合国家が、その社会的弊害を減少するための努力は、いかに文明が発展しても続けられる。

 アメリカ合衆国はもとより、多くの国が、国家成立の当初から異民族の存在を認めざるをえない内部事情により、やむをえず風習や言葉・苗字の多様化を認めているのだが、国際化のためではない。

 社会を平和に安全に営むためには、生活するに必要な基層文化である言葉、風習、宗教、衣、食、住などの共通性が望まれてきた。しかし、高等な文明社会では、衣、食、住や風習、宗教などの共通性を重視する必要性は弱くなった。ところが、意志伝達に欠くことのできない言葉だけは、今もなお、絶対的な共通性が要求される基本的な文化なのである。

 

⒋.日本の安全と活力のみなもと

 同一民族と同一社会人とは必ずしも一致しないが、あらゆる面で国際化の進む中“日本人”という概念を少しゆるめて考える必要にせまられている。

“日本人”には、民族的日本人と社会的日本人の二種類がある。民族的日本人は、両親を日本人とした人であり、社会的日本人は、日本の基層文化を共有し、社会の義務と責任を果す、日本在住の人である。

 日本人の多くは、これまで民族的日本人のみを認めがちであったが、これからは、社会的日本人をも平等に認めることが望まれる。

 科学技術が進んだ高等な文明社会では、物理的に世界は狭くなり、これまでになかった異民族間の文化共有の範囲が拡大されがちであるが、社会を営むに必要な最低条件を無視するわけにはいかない。それは、同一社会人としての基本的な文化を共有することである。

 日本は外部からの移民を奨励してきた国ではないし、これからもその必要性はないだろうが、やむをえず日本に住まなければならなかったり、本人が強く希望したりする場合等は条件の許す限り認可してもよいのではなかろうか。ただし、日本の基本的な文化である日本語を話し、姓はなるべく共通したものにしてほしい。

 日本の過去における帰化人が、数世代後に同化してしまったのは、姓の日本化にあったものと思われる。もし、姓を異文化のままにしておけば、子々孫々にいたるまで外国人、異邦人の尾をひく。そうすれば、やがて多民族国家日本になり、民族闘争や宗教戦争が起りやすく、内部衰退や分裂の可能性が高くなる。

 “一葉落ちて天下の秋を知る”

 将来を洞察することは困難であるが、カタカナ姓の日本人が多くなることは、国際化のための理想とはいえない。

 世界中どの国を訪れても、基層文化を共有する一億人以上の民が、平和に、安全に暮している社会は日本以外にない。日本の繁栄と安全と活力は、この一億数千万人の民が、同じ言葉で意志を通じ合い、共通の社会性をもち、最後の踏ん張り合いが効くところにある。

      機関誌「野外活動(現:野外文化)」第65号(昭和58年8月27日)巻頭より