世界の中の日本(昭和49年)

世界の中の日本

 人は誰でも父母と故郷と祖国を持っている。中にはかつてのユダヤ人のように放浪の民もあったが人間誰しも、自分の安住の地を求めんと努力する。その努力が生きることの苦難と闘うエネルギーでもあるはずだ。

 故郷である大地、祖国である大地、その大地に両足を踏張って、隣人と共に生きることこそ心の平和をかち取るものではないだろうか…。物質の豊かさに明け暮れ、最も大事な安住の地を守る努力と協力をなくすれば、その人は帰る大地を失った精神的放浪者にならざるをえない。

 何の義務も責任もなく、気の向くまま、好きなところに自分の存在を確認する理想郷を求める人は、理想郷とはいかなるものであるかを知るべきだ。たとえ自分が理想の大地だと思っても、自分以外の人間がその場にいれば、必ず自分の大地、自分の安全を願うであろう。そこにはすでに、義務と責任が存在する。そして、その人は初めて、人間社会の理想と、生きることの現実の差を痛感する。

 人間は紀元前ギリシアの哲人、ソクラテスか悩み、考えた時代と内面的には殆んど変っていない。ただ、自分の欲望を満す外的要因すなわち、物質とのかかわりあいだけが変化したのであって、人間そのものが変化したわけではない。

 私は、この10年間に110ヵ国の国々を自分の足で歩いてみた。そして、各国の歴史、文化、文明、社会、経済機構と人種、宗教、そして、国境の存在を見てきた。その体験の中で、人間は、自己の存在を確認したがる動物であることを知った。自分の祖国、自分の宗教、自分の思考を最善と信じ、自分により忠実に生きている人間に、自分の存在を無視せよ、自分の生存している大地を、自分の信じている大地をなくして、地球上のすべての人類が無我になって、すべてを分かちあうという理想は、あくまでも理想である。その前に人類の各自が自己と自分の存在している大地、地域を最善の努力をはらって、人間社会にふさわしいように発展させることがまず第一歩の理想であるはずだ。

 それを忘れて、自分の足元を見ずして、1キロ先をどうして見定めることかできよう、どうして1キロ先に到達できよう。

 すべての人間が、まず自分を見て、それから5メートル先を、10メートル先を見なから前に向って進むしかないのだが、残念ながら、ソクラテスの時代から、人間は1キロ先を急いで見続けてきて、いつも足元の不安さをなげいている。

 今日の日本の社会的・経済的不安の原因は文明という、外的要因に酔いしれて自分の足元を見ずして、世界のため、人類のためという大きな理想を、さも簡単に実現できるかのように錯覚していたことに原因があろう。

 日本の大地にある日本の各企業が、まず第1に日本の人々のために存在しているのでなければ、日本という、我々の祖国に存在する必要はなかろう。しかも、その企業の労働者・経営者が日本人ならば、その企業の大移動は、地球上のどこの大地も受け入れてはくれない。労働者も経営者も日本人ならば、まず自分たちのための企業の存在を十分認識せねばなるまい。日本の人々に十分なほどこしをしてから、日本以外の人々にもその恩恵を与えていこうとしないならば、どこの国の人々も、その恩恵を偽善とする。

 世界平和は、まず自分の住んでいる大地・祖国を平和に安全にすることであって、物を買い占め、売り惜しみして、故意に物の価格をつり上げて社会の安定・安全を乱すようなことではない。

 私は世界の諸々を自分の目で見、肌で感じたが、私には日本にしか心のやすらぎを求める大地はない。だから私は、かつてのユダヤ人のような放浪の民が、ただ金で安全を求めるような行為はしない。程度の低い文明国ならいざ知らず、文化国家の民は「金がすべて」というユダヤ商法を、全人類のためにも慎むべきではないだろうか。

 地球は狭くなり、文明は発展したが、人間の悩みと苦労と不安と喜びは、もう何千年間も大して変っていない。また、自然環境からはぐくまれる風俗・習慣・地域性もなかなか変化しない。だから私は、自分が日本列島内に棲んでいる限り、日本人としての悩みも苦労も、喜びとして叫ぶが、安住の地としての権利も叫ぶ。そのために、明日の日本が世界的に信用のある文化国家になるよう努力しよう。結局そうすることが人類の世界平和の第一歩であり、日本人の人類に対する義務でもある。

      機関誌「ZIGZAG(現:野外文化)」第19号(昭和49年2月26日)巻頭より