この日本 誰に渡す(平成3年)

この日本 誰に渡す

1.豊かな日本

 社会には共通の了解事項や、規制が必要。さもないとお互いに騙し合い、傷つけ合い、裏切り合う弱肉強食となりがちである。だからこそ、これまでのいかなる社会でもお互いの了解事項(道徳心又は規則)を大切にしてきた。その了解事項の最大公約数が民族であったり国家であったりする。

 自然と共に生きる民族の知恵を生活文化と呼び、その文化を伝承することを青少年の健全育成というのである。

昭和22年4月に小学校に入学した私は、戦後の日本と共に成長した。何もなくて衣食住にもこと欠いた昭和20年代、所得倍増に勤しんだ30年代。東京オリンピック歓喜し、世界の仲間入りを果した40年代は、破竹の勢いで経済成長をとげ、「世界の工場」と呼ばれるほど工業化が進み、50年代には国際的経済活動の中心国となり、「世界の金庫」と呼ばれるほどになった。そして60年代には、戦前・戦中の教育を受けた日本人の負けじ魂と努力と苦労が見事に花開いて、世界で最も平和で豊かな国を築き上げた。戦後の民主教育を受け、自由平等の下に伸び伸びと育った私達にとって、これほどありかたいことはなかった。しかし、日本は、急いで豊かさを求めたが故に失った物も多く、社会の根本的な規範が周知されないまま、民族の自主性や価値観の基準を見定めることができていなかった。

 

2.文化やふるさとの喪失

 平和憲法の名の下に、社会を維持、管理する主休性を弱め、価値観の基準を失った日本は、社会の安定と継続に必要な人づくりである、社会人の基本的能力、すなわち基層文化(野外文化)と呼ばれる生きる能力の養成や生活の知恵の伝承を忘れていた。民族や国家にとっての価値観は、お互いの暗黙の了解事項である文化の共有なのである。その共有文化である財産を世襲し得るためには、お互いに少々の犠牲や妥協、協力、協調がなくてはならないし、努力と奉仕の心得がなくてはならない。

 日本人には、青春の日々に心ときめかした恋人を想うような、美しき、緑の野山や青き海や川への憧れがある。四季のある豊かな自然が育んできたふるさとは、日本人に共通する文化であり、いつ、どこで、誰とでも楽しく話し合うことができた。

 しかし、今では教育も、政治も、経済も、日本人共通の文化を忘れ、効率的な手段や方法ばかりが目につく。まるで、合理的、科学的、功利的なことが絶対的真理であるかのごとく、ひたすら進歩主義を追い求めてきた。

 これまでの日本ではやむを得なかった面もあるが、誰のために、何故、どうして走らなければならないかを、今一度立ち止まって考える必要がある。

 私たち1億2,300万人は、地球上の日本列島に運命共同休として共に生きている。繁栄のための経済活動を世界的規模で実践するための国際化と、社会の安定と継続を促す国民化は相反する点があるが、日本人の国民化なくして日本の国際化もありえない。

 まずは、お互いに共通する規範と共通の文化をもつ国民化を普及し、より多くの共通性を持つことである。

 今日の日本人は共通の「ふるさと」を失って孤立化しているが、共通の文化を失った社会は、活力や創造力をなくし、やがて内部衰退に陥る。

 

3.日本人から日本人へ

 日本人が日本人を愛して、日本人に尽くし、共通の文化を持つことに少しも不都合はない。日本人が繁栄、安定、継続の下に生き続けられるのは、技術的、効率的産業主義によるだけではなく、大地に足を付け、大地を耕し、隣人を愛し、絆を大切にし、共通の文化を持ち、自然の恵みを受けることも重要なのである。

 理想の平和や国際化を説きながら、日本の文化を無視するような、日本人共通のふるさとを否定するような世界主義者を警戒するがよい。そういう学者や評論家は功利的な個人主義者でしかないからだ。

 戦後の日本はアメリカという他国への依存によって、自己管理能力を弱めたが、多くの人々の努力と工夫によって今や世界の経済大国なのである。この日本、私たちはこれから誰に渡そうとしているのだろうか?そのことを考えずして真の政治はなく、いかなる経済活動も先が見えている。

 栄枯盛衰は世の常であるが、これまでの日本人の苦労と努力の証明は、やはり次の世代の日本人に手渡すべきである。それには、次の世代がよりよい日本人に育つよう努力せねばならない。

 これからは見境もなく物欲主義に走ることを少々ひかえ、次代を継ぐ人づくりにお金と時間を注ぐよう努力すべきである。そうすれば、日本人は地球人としての共通のふるさとをもつことができる。

            機関誌「野外文化 」 第113号(平成3年8月30日)巻頭より