日本人の国際化と国籍(平成8年)

日本人の国際化と国籍

1.国際化に必要な国籍

 私たち日本人は、“国際社会において、名誉ある地位を占めたい”と思っているのか、“国際化”という言葉が好きである。

 国際化には、個人的と社会的があり、また、経済的、文化的、政治的などもあるが、いずれにしても、主体的か従属的かによって形が大きく違ってくる。

 個人的に、従属的国際化を望むならば、好きな国へ移民すれば可能だが、主体的ならば、大変な努力と忍耐力が必要で、容易なことではない。

 社会的に、従属的な国際化を望むならば、諸外国に文化的、経済的に従って政治的小国になれば比較的容易だが、主体的国際化を望むならば、諸外国に理解してもらう努力と工夫と貢献が必要である。

 個人的に国際化を望むには、どこかの国民としての権利と義務を負わない限り、いかなる社会からも受け入れられない。いかなる人も国籍を持たない限り、国際的な活動をすることは出来ない。国際化と国籍は表裏一体であるが、日本ではあまり理解されていない。

 

2.半独立国日本

 今日、公務員の国籍条項を撤廃せよとか、地方分権、それに国際化などが叫ばれているが、これらは、戦後50年間も潜在的に続いている、アメリカ合衆国の占領管理的政策の具現である。

 日本は、昭和20年8月15日に無条件降伏して以来、アメリカ合衆国を中心とする連合軍の占領下におかれ、昭和22年5月に憲法が制定されたが、その中には日本人や日木語の規定はない。あるのは、日本国民が世界の人々と仲良く暮らしていくための必要条件である。

 日本は、昭和27年4月28日に“サンフランシスコ平和条約”が効力を発生することによって、形式的には独立したが、国家の骨格をなす憲法はそのままである。日本政府は、これまでに憲法の“是非”を国民に確かめたことはなく、単独講和的な安保条約によって、アメリカ合衆国の傘下に置かれている。そのせいか、文化的、社会的な違いを乗り越えて、ひたすらアメリカ追随に努力してきた。

 そして、今日にいたっても、親離れできない子供のように、戦後まもなくのアメリカ知識人達か望んだ日本国のあり方とも言える、国籍無用や地方分権、国際化などを理想的に描く努力を続けている。それはまだ半分しか独立しえていないからだ。

 

3.経済大国の論理

 憲法第九条②「国の交戦権は、これを認めない」としている日本は、アメリカ合衆国の保護のもとに、平和で、豊かな社会づくりに邁進してきた。私たち日本人は、豊かになる条件を満たすためには、国も文化も誇りもそれほど重要視はしなかった。

 与えられた民主主義社会日本の政洽家たちは、外交や内政を経済活動の一環と考え、日本国のあり方を真剣に論議する重要性を無視しがちであった。官僚の多くは、そうした政治家をうまく操って、自分たちの省益や権益を拡大することに努め、公益的配慮を弱めていた。そして、国家的共通性を見失った国民の経済活動は、個人的利益の追求であった。その結果、独立国としての外交権を駆使しようとしない政府のもとで、自由と権利を謳歌する国民が、理想の平和国家を今日まで追求することができた。

 占領下で制定された憲法金科玉条とする日本国は、他国との共生を願って、主張せず、争わず、アメリカに見習い、国際的義務と責任を負わず、自由に経済活動が出来る利益追求型の、政治的小国の論理で成り立っている。

 

4.国民は多様な日本人

 憲法第十条「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」

 憲法第二十条②「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」

 憲法には日本国民の規定はあるが、日本人の規定はない。日本国民と日本人の違いをはっきりさせないことには、主権国家の公務員になるために、国籍が必要なことを理解することは出来ない。

 日本国民には、両親を日本人とする民族的日本人と、日本国に住み、日本の風習や言葉を理解し、社会の義務と責任を果たしている社会的日本人がいる。

 私たちにとっての日本人とは、民族的日本人のことであるが、日本国憲法によれば、社会的日本人をも含めるのである。

 単一民族的社会に生まれ育った、馴合い社会の民族的日本人は、あるがままの社会という関わり方でしか判断しない習慣があったが、今日では、社会の必要条件を共有する社会的日本人になる必要に迫られている。

 例えば、中国には56の民族が住んでいるが、民族的中国人は1人もいない。漢族や蒙古、朝鮮、チベットウイグル族などはいずれも社会的中国人であり、皆中国国民である。

 これからの日本国民には、朝鮮族系日本人、漢族系日本人など、多様な日本人がいても構わない。しかし、彼らは日本国籍を持たない限り、外国人なのである。

 国際化する日本国政府がまずしなければならないことは、国籍条項撤廃ではなく、“国民とは社会的日本人である”と規定することではあるまいか………。

             機関誌「野外文化」第142号(平成8年6月20日)より