お正月の原点(昭和57年)

お正月の原点

 お正月の年神様は大晦日に来臨し、願いごとを聞き届け、1月15日の小正月、ドンド焼きの煙になってお帰りになる。

 

1.年神様と門松

 正月というのは太陰暦の第1の月の別称であり、中国から移入された言葉であるが、日本から東南アジアにかけての稲作農耕民社会には、たいてい新年を祝う祭りがある。しかし、太陽暦になった今日の日本では、太陰暦よりも季節的に40日ほど早くなっているので、新春という意味がわかりにくい。

 日本古来の正月は。太陰暦(旧暦)の早春である年の始めにあたって、神霊の来臨を仰ぎ、その年の豊作を祈る、稲作儀礼が始まりとされている。この祖霊とも穀霊ともいわれる神霊を“年神様”又は“正月様”と呼んでいる。

 年神様を迎える準備として、まず最初、12月中旬頃。家を清くする意味で“煤払い”をする。そして、中・下旬、遅くとも27、8日頃までに、松を山へ切りに行く。これを“松迎え”というが、地方によっては“正月様迎え”ともいう。

 門松は、海や山から来臨すると信じられている年神様の依代なのである。門松は松の木とは限らず、シイやサカキ、ヒノキなど常緑樹が用いられるが、迎えられた木は大晦日までに立てられ、清浄な神域であることを示すため、しめ飾りをつける。そして、山の幸、海の幸と共に、必ず餅をついて供える。これは、これらと同じものを今年も豊かにお恵み下さい、と祈る気持ちを表現したものである。

 昔は、年神様を迎えるために、物忌みをして終夜起きあかすことになっていた。やがて、これが大晦日に、徹夜で神社におこもりして元旦を迎える“年ごもり”となる。そして、更に簡略化され、今日のように、元日の未明に参拝する初詣の風習となった。迎えられた年神様は、三が日の間、人間と同じように扱われ、ご飯や煮しめ、酒などを供えられる。いろいろな節の中で、最も大事な節である正月の、年神様に供えて食べる料理を“おせち(つ)料理”と呼称するようになったともいわれている。

 

2.お年玉の由来

 今日、正月三が日の訪問は、“年始”といわれているが、もともとは先祖まつりのための訪問だったとされている。

 古来、一家一族の本家に集まって、迎えられた先祖の魂祭りに参加し、親や長老を祝う風習があったが、武家社会になって、元日を参賀日と定め、従属者に忠誠を誓わせるようになったといわれている。この風習が一層拡張して、遠くの親族、友人、知人にまで年始の挨拶をするようになったのが“年賀状”である。昔、先祖の霊(たま)祭りに供えられた米が“トシダマ”すなわち米の霊といわれていたという。

万葉言葉で、米のことを“トシ”と呼んでいることは周知のことである。トシは、米だけでなく餅や握りめしを意味する言葉であり、一般に白い“鏡餅”が供えられるようになったとされている。

 トシダマは米(とし)霊(たま)がなまったもので、現在“年玉”と表記されているものと思われる。そのことは、餅を的にして矢を射ると、白鳥になって飛んだという説話からも理解できる。これは、日本から中国の雲南地方にかけてある、鳥は神の乗りものであるという精霊信仰と結びついたもので、白い餅が穀霊の象徴なのである。

 一族の人々が参集し、このトシダマである餅を“海や山の幸と共に煮た餅の吸物を“雑煮”として食べたのは、神に供えた餅を皆で分け合って食べる“直会(なおらい)”であった。

 敬語がついたお年玉は、年神様に供えられた米、もしくは餅が、1人ひとりに分け与えられる賜のことで、それを食べることによって生命力や活力を得ることができる、と思われていた。現在のお年玉は、目上の者からの贈物となり、一般的にお金が使われている。年賀葉書の“お年玉”つきも、こうした風習からきたものである。

 

3.東アジアの正月

 欧米では1年の最も大事な節はクリスマスであるが、精霊信仰のある東アジアは正月である。だいたい正月はどこでも類似しているが、中国は、“かまど神”の祭りが正月行事になっており、20数日間も続く。日本の正月に去来する年神様に類似しているので、平凡社百科事典を参考に、簡単に紹介する。

 各家のかまど神が12月23日に昇天し、玉皇大帝にその家の善悪と功過を報告する。そして、次年の吉凶禍福を授けられ、除夜に帰ってくる。家々では大晦日までに新しい神像を買いととのえ、かまどの近くに年画をはり、門や窓、壁などに“福”と書いた四角の紅紙をななめにところかまわずはる。

 大晦日には、かまど神を歓迎するために終夜灯火を消すことなく、夜明けまで爆竹を鳴らす。この夜、正月用の晴着で、一家そろって先祖の位牌を礼拝する。終ると、幼年者から順に年越しの挨拶をする。この時家長は、子女に紅い紙袋に入れた“お年玉”を渡す。

 元日早々、まず祖先を拝し、かまど神を拝し、老父母を拝してから、男は親戚、友人へ年始にまわり、仏寺や道観に初詣をする。女は5日後からとされている。5日までは毎晩燭を点し、線香をたいて祈る。三が日のおせち料理は、主に餃子やパン、甘い菓子などだそうだ。

 男たちは正月行事として、高脚踊り、竜灯踊り、獅子舞などをして爆竹を鳴らし、大変にぎやかな雰囲気である。

 1月15日は、日本の小正月のように、昨年の五穀豊穣を感謝し、今年の豊年を祈る祭りである。この時は、門前に五色の提灯を掲げ、爆竹を鳴らし、だんごや果物を月神に供え、友人などを招いて春酒を酌み交わしたといわれている。しかし、現在の中国では、太陰暦の正月三が日だけである。

 雲南地方のタイ族は、太陽暦の4月が正月であり、元日には男たちが訪れ合って酒を飲んで歌う。2日目は村対抗の龍船競争をし、3日目は身を清めるための水かけ祭りがあった。

 タイ国北部の山岳民アカ族も、太陽暦の4月10日が元日である。アピュロと呼ばれる正月行事は5日間で、村人全員が飲み、食べ、歌い、踊り、精霊と共に遊び、戯れて大騒ぎすることによって、今年の豊年祈願をしていた。やはり去来する精霊を迎えての祭りだった。

 

4.小正月の神送り

 1月15日は“成人式”となっているが、もともとは小正月と呼ばれる、稲作の豊年祈願が行なわれる日であり、年神様が帰る日である。

 年神様は、蓑を着、笠をかぶり、杖をついているというのが、日本中だいたい同じである。これを具体的にしたのが、九州地方の“田の神”であり、秋田県の“ナマハゲ”や長野地方の“カガシアゲ”である。小正月には“村の子供や青年が、こうした年神様になって、物乞いしながら村々を見て歩く。

 村人たちは、木の枝を半ばまで細長く、薄く削りかけ、花のようにちぢらせた“削掛”や、ヤナギ又はミズキなどの枝に小さなダンゴ餅をいっぱいつけた餅花などを作って安置する。これは、このように沢山稲の花が咲いて、大きな稲穂になったということを象徴するものである。

 また、多くの子供たちが、各家からしめ飾りや門松などをもらい集め、一か所に集めて火をつける。これを“ドンド焼き”と呼び、正月の年神様は、この煙と共に帰っていく。子供たちは、各家からもらった餅をこの火で焼き、煙か高く昇る様子を見ながら分け合って食べる。この体験は、心の中に永遠に燃え続けるふる里の火である。

 ドンド焼きは。火が音高くどんどん燃えて、年神様を元気よくどんどん送り返す子供たちの、未来への熱い願いがこめられた名称ではあるまいか…。

     機関誌「野外活動(現:野外文化)」第61号(昭和57年12月20日)巻頭より