カタカナ姓は異文化(昭和58年)

カタカナ姓は異文化

 日本の過去における帰化人が、数世代後に同化してしまったのは、姓の日本化にあったものと思われる。

 

1.日本人の姓は日本語

 法務省が、カタカナ姓を実質的に許可したことは、7月17日の新聞に大きく報道されていた。

 “キム、ワン、ス、卜、トン、オノン、ランバ、シャイザ、ボーロ、モーガン、モールス、エルゾーグ、ヴェント、ゴードン、トケイヤー、ウリアノフ、ベネディクト、ファニング、ハイメンドルフ、セミヨーノフ…”

 これからはこんな姓の日本人も現われることになるのだろうか。法務省は、昭和23年に民事局長通達として“帰化後の氏名については帰化者が自由に定められる″としているか、今日まで、窓口指導として、日本人としてふさわしいものが望ましいことを伝えてきた。そのため、カタカナ姓はなかったというのだが…。

 昭和23年といえば、日本はアメリカ合衆国支配下にあり、GHQがすべての実権を行使していた時代である。アメリカ合衆国は移民による多民族、多宗教の複合文化の社会で、世界中の諸民族の姓をもった人がおり、社会的統一はされていない。

 古来、日本列島に帰化した人々は多いが、いずれも日本人としてふさわしい姓に改めたので、その末裔はいつの間にか日本人になっている。過去において、国内外の多少の事情で強制した例もあったようだが、世界的な見地からすると成功した方ではないだろうか。

 周囲を海に囲まれた日本は、長い間、自然的な民族居住区と人工的な行政区圈がほぽ同一した社会を維持してきたので、姓は日本語の1部となり、基本的文化ともなっている。

 自然発生的な民族社会は、基本的な文化を共有する者の集団であるが、権力又は経済力によって拘束された作為的な社会は別である。アメリカ合衆国は人工的複合文化社会の代表である。

 

2.共通性と信頼社会

「どんな社会か理想ですか」

 私はこれまでに訪れた世界111ヵ国の多くの人々に質問した。

「信頼できる社会」

「人間が信じられる社会」

 答えは、だいたい類似していたが、「豊かな社会」は少なかった。

たとえ非文明社会に住む人々でも、自分たちがそれほど貧しいとは思っていなかった。

日本人の多くは、社会に対する不信度が、多民族複合社会の人々よりも強くない。ところが、情報量が豊かなせいか、他人と比較する習慣のせいか、豊かさについての欲求度は他民族よりも強い。多民族又は多宗教社会に生活する人人の意識は、まず自己防衛心が強い。そして、豊かさよりも平和に、安全に暮せることを強く望んでいる。           

 社会の基本的文化の共通性の弱い人々は、その社会人から好まれないのが一般的である。過去において、ユダヤ人が好まれなかった例は、個人主義的で、ユダヤの風習を主張したことによるものといわれている。また、社会意識の欠落が、多くの民族に猜疑心をもたせた原因にもなっている。ユダヤ人に知的に秀れた人が多いのは、個人主義的な能力主義によるものでもある。

 民族戦争や宗教戦争のたえることのなかった大陸の人々は、一般的に社会と他人に対する不信の念が強く、自己防衛能力が培われているのだが、日本のように他民族の侵略がなく、宗教戦争を知らない社会の人々は、一種の相互保障的な信頼社会を好み、画一的で、裏切りは御法度になりがちである。

 定住農耕民型の温和な社会に慣れてきた日本人は、信頼と共通性を強く求める風習を培ってきたが、アメリカナイズが進み、高等な文明社会に発展した今日では、社会に対する信頼が弱まり、個人主義的で、営利主義のユダヤ商法に溺れかけている。

 同一民族、同一言語を主張するわけではないが、社会を営むためには最も理想的であり、世界中の国家が望んでいることである。世界連邦を理想とするが、まだ道は遠い。もし世界が一つになったとしても、自然環境が変化しない限り、民族の基本的な文化まで統一することは不可能に近い。

 

3.社会の基本的な文化

 法務省は、国際化が進む中で、やむをえず原則自由の方針の再確認を迫られたというが、いかなる民族も、自然環境に依存の強い基本的な文化の変革を望まないし、自ずから好んで転換することのないのが一般的である。

 日本以外の大陸の諸国は、やむをえず、多民族多文化の社会を営んでいる。これは、長い間の民族や部族闘争の結果、権力や政治力による人工的行政区画によって、国家を成立させたことによるものである。中国、インド、ソ連、イラン、イラク。トルコ。ギリシア、イタリア、スイス、フランス、スペイン、イギリスなど、歴史の古いどの国を例にしても、未だに民族闘争が続けられている。多民族、多宗教の異文化複合国家が、その社会的弊害を減少するための努力は、いかに文明が発展しても続けられる。

 アメリカ合衆国はもとより、多くの国が、国家成立の当初から異民族の存在を認めざるをえない内部事情により、やむをえず風習や言葉・苗字の多様化を認めているのだが、国際化のためではない。

 社会を平和に安全に営むためには、生活するに必要な基層文化である言葉、風習、宗教、衣、食、住などの共通性が望まれてきた。しかし、高等な文明社会では、衣、食、住や風習、宗教などの共通性を重視する必要性は弱くなった。ところが、意志伝達に欠くことのできない言葉だけは、今もなお、絶対的な共通性が要求される基本的な文化なのである。

 

⒋.日本の安全と活力のみなもと

 同一民族と同一社会人とは必ずしも一致しないが、あらゆる面で国際化の進む中“日本人”という概念を少しゆるめて考える必要にせまられている。

“日本人”には、民族的日本人と社会的日本人の二種類がある。民族的日本人は、両親を日本人とした人であり、社会的日本人は、日本の基層文化を共有し、社会の義務と責任を果す、日本在住の人である。

 日本人の多くは、これまで民族的日本人のみを認めがちであったが、これからは、社会的日本人をも平等に認めることが望まれる。

 科学技術が進んだ高等な文明社会では、物理的に世界は狭くなり、これまでになかった異民族間の文化共有の範囲が拡大されがちであるが、社会を営むに必要な最低条件を無視するわけにはいかない。それは、同一社会人としての基本的な文化を共有することである。

 日本は外部からの移民を奨励してきた国ではないし、これからもその必要性はないだろうが、やむをえず日本に住まなければならなかったり、本人が強く希望したりする場合等は条件の許す限り認可してもよいのではなかろうか。ただし、日本の基本的な文化である日本語を話し、姓はなるべく共通したものにしてほしい。

 日本の過去における帰化人が、数世代後に同化してしまったのは、姓の日本化にあったものと思われる。もし、姓を異文化のままにしておけば、子々孫々にいたるまで外国人、異邦人の尾をひく。そうすれば、やがて多民族国家日本になり、民族闘争や宗教戦争が起りやすく、内部衰退や分裂の可能性が高くなる。

 “一葉落ちて天下の秋を知る”

 将来を洞察することは困難であるが、カタカナ姓の日本人が多くなることは、国際化のための理想とはいえない。

 世界中どの国を訪れても、基層文化を共有する一億人以上の民が、平和に、安全に暮している社会は日本以外にない。日本の繁栄と安全と活力は、この一億数千万人の民が、同じ言葉で意志を通じ合い、共通の社会性をもち、最後の踏ん張り合いが効くところにある。

      機関誌「野外活動(現:野外文化)」第65号(昭和58年8月27日)巻頭より