人民融和のための青少年教育(平成元年)

人民融和のための青少年教育

 風習や道徳心は、人民が自ら融和を図る知恵として今日まで伝承されてきたが、青少年教育もまさしく人民融和を目的として行われることが重要である。

1.自然環境と食文化・米

 自然の一部である人間は、太古より自然に順応・適応しながら生きてきた。この地球上の自然環境は千差万別であるが、それに応じて人間の適応のしかたが変わり、文化の違いを生み出していく。民族が異なるから文化か異なるのではなく、人間集団をとりまく自然環境が異なるから文化が異なり、民族が生じるのである。

 日本人の思考が複雑で、控え目なのは、四季のはっきりしている日本の自然が複雑で、豊かすぎるからである。乾燥地帯や砂漠に生きる人々の思考が目的的で、自己を主張するのは、自然が単調で貧しいからである。

 日本で家や町をつくろうとすれば必ず樹木を切らなければならないが、砂漠や荒野では必ず樹木を植える。そして、みだりに切ったり、倒したりした者は罰せられ、みんなで大切に育てる。大きく育つと、人々はその樹の陰で憩う。日常生活に不可欠な場を求めて樹木を植え、育てるのであって、観賞用ではない。

 自然が豊かで、四季のある日本では、季節が神の恵みを運んでくれたので、生活のために移動する必要がなかった。四季は人々に待つことを教え、手にしたものを最高に加工し料理する工夫の喜びを与えた。だから、日本人の特徴は、物を追いかける開拓精神よりも、大きな力を持った自然と共に生きる「待ち」と「工夫」の文化なのである。

 その最も重要なものが、二千数百年から三千年も前に中国大陸から渡来し、改良と工夫を加え続けてきた米なのである。稲は日本の温暖な気候によく合い、厭地性が弱いために、同じ水田で、何百何千年間も栽培し続けることができた。そのため、日本人の主食となって今日に至っている。だから、米は単なる食料品ではなく、日本の自然環境に順応して生きてきた日本人の心であり、ふる里であり命なので、生活文化そのものである。

 

2.基層文化の共有

 青少年教育で大事なことは、彼らが文化の伝承者だということの認識である。なぜなら、文化は机上の知識で伝えられるものではなく、青少年時代の体験や見聞が、時を経て得た知識と知恵によって納得されてこそ伝承されるものだから。

 青少年の教育の基本は、いろいろな遊びや生活体験、自然とのかかわり合いや心身の鍛練そのものであり、親が知っていることのすべてを子どもに伝えることである。これこそいつの時代にも変わらない人づくりの原点である。子どもたちは教え、伝えられた文化を、社会の変化とともに改善し、よりよい文化へと発展させるのが常である。

 ここにいう“文化”とは、社会人に必要な基本的な行動と心理状態(知識、態度、価値感)のことであり、文化人類学的な表現をするならば、社会の構成貝に共通した行動や生活の様式を指している。

 一般的に文化と呼ばれる伝統的なものには、社会の表層と基層をなす2種がある。芸能・音楽・美術工芸・文学などの表層文化は、個人的かつ流動的である。これらは人類に共通した感性によって培われて発展し、生活にうるおいをもたらすものとされている。今日の日本では、この表層文化を文化とみなしがちであるが、これが重要視されすぎたり、華美になりすぎたりすると、社会が退廃する。

 衣食住、言葉、風習、心身の鍛練などの基層文化は、自然環境に順応して社会生活を営むための基本であるので、地域性が強く、親から子、子から孫へと伝承されるものである。これを共有しないと、意思伝達が十分でなく、社会の一員になり難い。今日の日本では、これが無視されがちで、社会人としての基本的能力に欠けた青少年が多くなっている。

 米は、日本人にとって基層文化であり、親から子、子から孫へと伝えられ、その時代に応じて、いろいろな工夫と改善が加えられてきた。人間にとって最も大事なものは、生命とこの基層文化なのである。

 多くの民族にとっての防衛とは、生命と食料を守ることであった。それからすると、米は日本人にとっていつの時代も、伝えることを怠ってはならないものであり、守らねばならないものの1つである。

 

3.生活の儀式

 人間は、これまで長い間、社会生活が平穏無事に営めるよう、いろいろな工夫を凝らしてきた。中でも、日常生活でお互いの融和を図るために、誰もができる共通の約束ごとをつくってきた。それが、風俗習慣や道徳心とも呼ばれる、人間らしく生きるための基層文化としての儀式なのである。

 例えば、朝夕の挨拶や、食事前に「いただきます」といったり、はしで食事をしたり、あぐらを組むことは、親しみを強め安心感や満足感などを与えてくれる習慣的なことである。

 また、身体の弱い人や年寄りなどをいたわったり、困った人を助けたり、幼少年をはぐくんだりすることは、社会人にとっての素養で、道徳心と呼ばれる心得なのである。

 こうした生活の儀式は、いかなる社会でも日常茶飯事なことで、教育などと呼ばれるようなものではなかった。しかし、今日の日本では、その当り前のことを教育せねばならない必要にせまられている。

 自然に順応しながら生きてきた人間は、畏怖と感謝の念による心のよりどころを持っていた。が、豊かな社会に生きる今日の人々は、科学的に解明する学問に慣れ親しみ、文明の発展につれて、生活の儀式を忘れ、心の安定を失いがちである。

 人間か常に心がけてきたことは、日常生活で、自分たちの培ってきた生活の儀式を、次の世代に伝えることであった。さもないと、自分たちと同じ文化を持った社会人に育ってくれないからである。

 社会生活の儀式である風習や道徳心は、人民が自ら融和を図る知恵として、今日まで伝承されてきたものである。その人民融和の理念は人類共通であるが、言葉や方法が民族によって異なる。その違いが民族の特徴であり基層文化でもある。

 日本は、すでに千三百年もの長きにわたって、天皇を社会の権威としてきたので、単一民族・単一文化的になり、世界でも例がないほど、よく人民融和が図られてきた国であった。天皇は日本人の融和を図るための中心的な存在であり、文化であったが、権力的でも、宗教的でもなかったともいえる。だから。中国大陸における皇帝や欧米諸国その他の王位や法王とも異なった、日本独自の基層文化の1つだともいえる。

4.民和を図る知恵

 赤子は人間になる可能性をもった動物ではあるが、社会的能力をもった人間ではない。可能性をもった子をいかに能力の高い人間に育てるか、それは親や社会人の努力と工夫によるものである。

 人間は、いつの時代も人間らしく生きる能力を培うことを忘れてはいけないし、衰退させてもいけない。だから、人間の基本的能力は、人間らしく生きる知恵、すなわち、人民融和を図るための生活の儀式だといえる。

 この人民融和の言葉を略して“民和”とするのであるが、人間が青少年教育を始めたのは、民和を図るためであった。言葉や風習には共通性があり、道徳心には暗黙の了解があるのだが、そのことを教えないことには民和は図れない。戦後の日本は、そのことを忘れて日本人を育てる努力と工夫を怠ってきた。ならば本年を民和元年として、民和を図る新しい方法の第1歩を踏み出す年とすべきである。

 21世紀には、国際化が一層進む。多民族・多文化の社会で生きるには、己のアイデンティティとして、人類に共通している民和のための生活儀式を身につけておくことが大事である。それは、まず日本人は、日本人らしく生きる生活文化を身につけることである。

             機関誌「野外文化」第98号(平成元年2月20日)巻頭より