日本語の2通りの数え方(昭和62年)

日本語の二通りの数え方

 日本人は、“いち、に、さん”と“ひい、ふう、みい”の2通りの数え方を使いわけたことにより、日本人特有の感情や考え方を培わせたのではあるまいか…。

 

1.言葉の使いわけ

 日本には古くから数の数え方が2通りある.この理由についてはまだ十分解明されてはいない。

 日本人が現在学校で習う1から10までの数の数え方は“いち、にい、さん、しい、ごう、ろく、しち、はち、きゅう(くう)、じゅう”であるが、日常の会話ではもう1つの数え方がある.

 “ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、や、ここ(ここの)、とう”

 子どもの伝承遊びなどでは、むしろこちらの数え方が多いし、文化的には幅の広い活用がなされている。

 どちらが古くて、どちらが新しいのかはっきりしないが、和語とされている“ひい、ふう、みい“の数え方が古いような気かする。

 1つの民族が、日常最もよく使われる言葉で、社会生活に大変重要な基礎語彙の数詞を自然に2通り使用するはずがないのだが、日本人があえて今日まで使い続けてきたのは、記録のはっきりしないはるか昔に、2つの民族が政治的に統合されたかどちらかが支配されたのか、さもなければ強い政治権力によって統制されたかである。しかし、自然と共に生きる民族の文化は他民族の借用語になじみにくく、武力や権力ではなかなか変えることのできないものである。例えば、今日のインドのように、100年以上も植民地となり、支配者の言葉である英語を公用語とし、独立後40年間もそうしているのだが。今も土着語が15以上使われている。もしかすると、“ひい、ふう、みい”の数え方が、日本土着の言葉なのかもしれない。

 

2.商業的と農耕的な数詞

 20数年来、中央アジアから東に住むモンゴロイドの諸民族を踏査し、数の数え方を聞き書きしてきたが、“ひい、ふう、みい”に類似した発音はどこにもなかった。その反面、“いち、にい、さん”の方は、チベット系諸民族の発音“チーク、ニー、ソム、シー、ンガ、ツーク、ヅン、ゲ、グ、チュー”によく似ているし、中国語の“イ、アル、サン、ス、ウ、リウ、チー、パー、チウ、シイ”にも類似している。

 とすると、“いち、にい、さん”の方が新しく、飛鳥又は奈良時代仏教文化の1つとして漢字と共に渡来したのかもしれない。ということは、2民族の統合ではなく、仏教文化を普及させようとする政治力によって統制された公用語の徹底ということになる。そのせいか、“いち、にい、さん”は学問的には漢語系の言葉だともいわれている。なんとなく感覚的に“いち、にい、さん”の数え方よりも、“ひい、ふう、みい”の数え方の方が庶民的で日本の生活文化になじんでいるし、応用が広くなされていることは事実である。

 物の数や重量など、近代的経済感覚を必要とする数え方はどうしても“いち、にい、さん”、“いっこ、にこ、さんこ”又は“いちキロ、にキロ、さんキロ”であり、“いっぽん、にほん、さんぼん”の方がぴったりしているが、物ごとを大まかに、しかも単位など必要としないような数え方は、“ひい、ふう、みい”“ひとつ、ふたつ、みつ”といった方がなんとなく使いやすい。

 実際に数えてみると、“いち、にい、さん”の方は、リズミカルで、自然に関わりなく積極的に生きようとする乾燥地帯の生活観を感じさせるが、“ひい、ふう、みい”の方は、うららかな春のようにのんびりしており、有機的な潤いのある緑の大地と共に生きる農耕民の営みが感じられる。

 

3.漢字の複雑な発音

 日本人が常用する漢字にも、呉音、漢音、唐音、慣用音の4つの発音がある。日本では古くからこれらの発音をごちゃまぜに使ってきたので、読み方が大変複雑である。

 例えば、“一”を漢音で“イッ”、呉音で“イチ”、“二”を漢音で“ジ”、呉音で“ニ”、“三”を漢音と呉音で“サン”と発音する。とすると、イチ、二、サンは漢音ではなく呉音である。

 “反”は漢音で“フン”、呉音で“ブン”、慣用音で“ブ”、“石” は漢音で“イシ”、呉音で“シャク”、慣用音“コク”、“灯”は漢音で“テイ”、呉音で“チョウ”、唐音で、“チン”、“行”は漢音で、“コウ”、呉音で“ギョウ”、唐音で“アン”と発音すると「広辞苑」に書いている.

 それでは、今日の中国で数の数え方はどのような発音になっているのか、私か現地で聞いた発音通りにカタカナで記してみると次のようになる.

 北京ではイー、アー、サン、スー、ウォー、リョー、チェ、パー、チュー、スー

 武漢ではイー、アー、サン、スー、ウー.リュウ、チー、パー、キュー、スー

 西安ではイ、アール、サン、スー、ウー、リョ、チイ、バ.ジュウ、シ

 上海ではイェ、二、セイ、スー、ンー.口、チェ、パ、チュー、サ

 福建省ではエイ、ネイ、サン、セイ、ウゴ、リュ、ツェイ、パイ、カオ、セイ

 広東省ではヤッ.イ.サム、セイ、ウ、口、チャッ、バー、ガウ、サッ

 中国各地で数詞の数え方がかなりちがうのである.だから、日本語のいち、に、さんの発音が、千年以上も前に中国大陸から伝来したものだとしても、それはすでに日本語なのであって、中国語ではないのである.

 民族戦争の絶えない大陸では、支配民族がたえず代るので、使用する言葉も変化する。だから、現在.100年前、500年前、800年前、1000年前の中国はいずれも同じではなく.今の中国は500年前の中国ではないのである。

 日本は大きな民族戦争かなかったので、千数百年前に使われた言葉が.少々変化はあってもほぼ同じ型で今も使われており、千年前の日本と今の日本がほぼ同じという大変珍らしい民族社会なのである。

 

4.和語の数え方

“いち、にい、さん”の数え方は、今日の日本人なら誰もが知っていることなので説明を必要としないが、“ひい、ふう、みい”の方は少々説明しないと理解できないのではないかと思われる。

 因に、二十、二十歳、二十年を何と発音するか、若い者で知っている人は少ないだろう。二十は“はた”、二十歳は“はたち”、二十年は“はたとせ”である。

 三十を“みそ”といい、三十歳を“みそじ”という。これは実際には三十路と書いて“そじ″というのだが、四十歳“よそじ”、五十歳“いそじ”、六十歳“むそじ”、七十歳“ななそじ”、八十歳“やそじ”のように、年齢を意味する言葉になっている。九十は“ここのそじ”というので、これで年齢を意味するが、百は“もも”で、百歳は百年と同じ発音で“ももとせ”ということになっている。

 三十の“みそ”はいろいろ使われており、三十日を“みそか”と呼び、月の末日を意味する言葉である。だから“みそかそば”といえば、月末を祝って食べるそばであり、“みそか払い”といえば月末払いという意珠である。また、1年には“三十日(みそか)”が12回あり、最後のみそかは“大晦日(おおみそか)”、一般的には大晦日と書くことになっている。

 七七日と書いて“なななのか”と発音するのだが、これは仏教用語の四十九日のことである。

 それでは、十一、十二などはなんと発音するのか突然尋ねられると大半の日本人か困ってしまう。和語の数え方は、両手両足の指を全部使う二十進法であったようである。

 十一は“とうあまりひとつ″、十二は“とうあまりふたつ”、十七は“とうまりななつ”となり、あまりの“あ”をぬかして発音する。21日は“はつかあまりひとひ”、24年は“はたあまりよねん”、32歳は“みそちあまりふたつ”、110歳は“ももちまりとう”と“あ”をぬいて発音する。

 “あまり”という日本語を調べると「数詞についてさらに余分のあることを示す。10以上の数を表わす場合には、数詞と数詞との間にはいることもある」と説明してある。

 “ひと、ふた、みー、よー、いつ、む、なな、や、ここ、とう”とも発音するが、“ひい、ふう、みい、よう、いつ、む、なな、や、この、とう”ともいうし、“ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とう”と発音することもある。なんとなく未整理で未発達のようで使いにくい一面もある。使いやすさでは、十進法の漢語系とされている“いち、に、さん”の方がはるかに勝っている。しかし、日本文化には漢語系の数では表現しきれないものがある。この2種の数詞の発音が日本人にいろいろな感情や考え方を培わせたのではあるまいか…。

 日本人が便利さだけを追求するのではなく、2通りの数の数え方を今日まで上手に使いわけてきたことは、経済的社会と自然と共に生きる定住農耕民としての文化的社会の二面性を培うのにも役立っていたのかもしれない。しかし、今日の日本人は“ひい、ふう、みい”の方を忘れがちであり、新人類といわれる人々には、なんのことかわからなくなりつつある。そして、欧米からの借用語であるカタカナが日常生活に氾濫して、基礎語彙すら不明になりつつある。

             機関誌「野外文化」第89号(昭和62年8月28日)巻頭より

 

 

文化戦争と教育(平成4年)

文化戦争と教育

1.文化戦争とは

 世界の多くの民族や国家が、社会の後継者である青少年教育に熱心であったのは、独自の文化を守り、伝承するための必要課題であったからである。

 社会にとって大事なことは、共通の言葉や風習、価値観や規範をもつことである。そして、それらの公的側面の強い文化を守るために大変多くの戦いが繰り返されてきた。一般的に戦争といえば武器による悲惨な状態を想うし、今日的には文明の利器による経済戦争を連想することだろう。しかし、古代から変わりなく、最も日常的に繰り返されてきたのは文化戦争である。経済戦争や武器戦争は、より具体的、直接的であるが、負けても再び立ち上がる機会がある。ところが文化戦争に負ければ併合又は社会の衰退があるのみである。社会にとって最も破壊的なのは文化戦争であるのに、個人にとっては、耐え難きを耐え、忍び難きを忍べば、時が多くのことを癒してくれるので被害意識はそれほど強くない。

 これまでの日本は、周囲を海に囲まれ、単一民族に近い社会を営んできたので、文化戦争を意識する必要はなかった。しかし、この3~40年の間に国際化の波が押し寄せ、諸外国の人々や言葉、風習、行事や情報など異文化が身近にあふれている。まさしく、未経験の文化戦争を強いられているのだが、多くの人はそのことを認知せず、国際化、価値観の多様化という名のもとに気軽く受け入れている。そして、すでに、日本人同士で共通性の少ない不安定な異文化社会を形成している。

 

2.社会に重要な文化

 文化と呼ばれるものには、社会の基層と表層をなす2種がある。

 基層文化は、自然環境に順応して社会生活を営むに必要な基本的能力(野外文化)で、地域性が強く、親から子、子から孫へと伝承されるものである。例えば、衣食住や安全、衛生などに関する観念・言葉や風習、心身の鍛錬などである。これらを共有しないことには意思伝達が十分でなく、社会の一員になり難いので、伝承の必要性が高い。

 表層文化は、人類に共通する感性によって培われて発展し、生活にうるおいをもたらせるもので、芸能・音楽・文学・美術・工芸などがある。これらは個人的かつ流動的であり、主義・思想・宗教・民族などを越えて画一化されやすいので、公的な伝承の必要性は少ない。

 人間が社会を営むのは、生命の安全と生活の安定を守るのが目的であって、文化伝承のためではない。しかし、社会人に必要な基層文化は、その目的に直結した重要な文化で、守り伝えてゆくものとされている。

 

3.文化的敗北主義

 日本は47年前に武器戦争に負けたが、文化戦争に負けたわけではなかった。ところが、今日になって、多くの人が文化戦争にも負けつつあることを痛感させられている。

 日本は、これまでに民族の存亡をかける文化戦争を体験していなかったので、人々は文化の独自性と重要性を認識していない。それは、奈良、平安時代の千年以上も昔に、中国大陸や朝鮮半島から多くの文化、文明を取り入れ、長い年月をかけて自然に日本文化を形成したからである。そのため、独自の文化を守り伝えるよりも、外来のものを気軽く受け入れる進取の心を大事にした。それが明治時代以後の西洋化に成功する要因でもあった。

 日本人はもともと民族の主体性を必要としなかったので、強いもの、良いものには弱く、なりふりかまわず追随することに大きな抵抗はなかった。その日本がアメリカとの武器戦争に負け、自分たちの弱かったこと、遅れていたことを、まるで民族戦争に敗北したかのように懺悔し、すべてのことを変えようとした。そのため、アメリカ的な文化、文明を盲目的に受け入れ、社会の変えてはいけない、変わらないであろう基層文化までもかなぐりすてて、文化的敗北主義の道を進んできた。その結果が、バブル経済を仕組み、基本的能力未発達性症候群の青少年を輩出する知識偏重教育を生み出す要因となっている。

 

4.教育の改革

 社会のすべては人がなすことなので、よりよい社会人を育成することが全てに勝る政策である。それは理想的な民主主義教育がなおざりがちにしてきた、社会人に必要な基本的能力の養成と文化の伝承をする野外文化教育によってなされる。

 文化戦争に負けつつある日本の教育改革は、遅ればせながら生活科や学校週五日制によって今やっとなされようとしているが、社会人に必要な言葉や風習、価値観や規範など、基層文化の共有こそ国民の心得とすべきである。

             機関誌「野外文化」第117号(平成4年4月20日)巻頭より

 

天皇即位に必要な大嘗祭(平成28年)

天皇即位に必要な大嘗祭

1.稲作による生活文化

 稲は多年草だが、毎年定期的に苗を植えては刈り取るので、日本人にとって最も身近にある植物であった。そして、稲作農農業の過程の風景や仕事から、巡りめく季節感や年中行事、祭りなどが発生し、今日もまだ続けられている。

 米は稲草の実であるが、稲のような1つの栽培植物によって、一千年以上もの長い間、民族がほぼ統一されてきた民族国家は、日本以外にはない。極論すれば、稲が日本人の生活文化を豊にし、日本人たらしめてきたとも言える。その日本の生活文化の成り立ちや、日本人と稲とのかかわりによって支え続けられてきたのが天皇と呼ばれる統合機関である。

 

2. 祖霊信仰と天皇

 稲作農耕民たちは「人は死ねばごみ(土)になる」という唯物論的な考えではなく、神にもなり得るという唯心論的な考えを培って、古代から60年以上も生きた長寿の親が亡くなった後、子孫は、その徳と生命力を慕い、あやかろうとした。

 特に、稲を栽培する際の火災や病害虫、水不足などに悩み、苦しみに耐えがたいとき、子孫たちは先祖霊を呼び、助けを求めた。日本では、祖霊を祀る行為を「先祖祭」と呼んでいる。最も一般的なのが、正月と盆の祖霊祭。稲作農耕民は、こうした祖霊をいつしか「神」と崇めるようになり祖霊信仰という社会形態が組織化された。

 神の発生にはいろいろあるが、我々が困ったとき、人が自身を超越するもの、不吋知なものの存在に気づくこと、人を取り巻く自然現象など、神の所産とする概念は原始時代に発生している。また、人間の共同体の始原者、主宰者または保護者であるものを、神と考えることに始まるともされている。その延長が、日本民族の始祖であるとされているに天照大神であり、その流れを汲むとされているのが天皇だと考えられている。

 

3.天皇即位と大嘗祭

 祖霊信仰の考え方では先祖の霊は不滅の存在であり、その一部が物や人に宿っている間は、その物や人に生命があると思われていた。

 日本の天皇には、ごく普通の日本人にとっては先祖霊の依り代で、政治的権力者としての立場ではなく、日本古来の民間信仰である天照大神への尊崇を中心とする、民族的象徴であり、親のような存在である。

 神道における天照大神は、皇室の祖神と仰がれ、伊勢神宮のご神体である。だから、天皇としての人間は亡くなるが、社会統制機関としての依り代である天皇には、死ぬことなく遺伝子のように継続し続ける。そして、天皇に即位する人が代われば時世も変わる。

 天皇が即位後、初めて行う新嘗祭(新穀ー米ーを食べる祭り)を、大嘗祭と呼ぶのだが、天皇に即位するために欠かすことのできない天神・地祇と新穀を共食する儀式である。

 大嘗祭は、あらかじめ占凶を占って選ばれた水田、古代日本の中心地であった奈良や京都から東の悠紀田、西の主基田で稲を作らせ、神饌のための米を本納させて行われた。

一人の人間が.天皇に即位するために欠かすことの出来なかった「大嘗祭」は、稲作農耕民にとっては、先祖神としての新しい天皇を迎える祭礼であり、氏子としての務めを果たす象徴的儀礼でもあった。

 

4.日本を家族化した大嘗祭

 大嘗祭が始まったのは、紀元六七三年に即位した第41代の天武天皇の時代で、その次の第42代の持統天皇によって確立されたとされている。しかし、その後武士階級の胎動によってうやむやになった時もあったようだが、これまでに数多くの天皇が即位して人賞祭が行われ続けてきた。

 新しい天皇が即位するための大嘗祭祭に、束西の2カ所から米を奉納した地域は、天皇とは家族関係というより、天皇の子、赤子、氏子となることが暗黙のうらに了承されていた。

 平成の今上陛下は、第125代目なので、80数代もの天皇大嘗祭をしたことになる。そのたびに東西の2カ所から米が奉納されたので、単純に計算しても160カ所以上の地域が、天皇の子、氏子になっているので、日本国のほぼ全域が形式的には家族のようになっている。どんな知恵者が考案したのか、大嘗祭は世界に例のない、民族統合を促す悠久の戦略的制度である。

 天皇は、稲作農耕民にとっては親であり、先祖であり、親でもある。そうした考えが、工業化した今日の日本国に住む人々の心の底にも、まだ遺伝子のごとく潜んでいる。

 

 大和人 お天道様と共にあり 初穂を捧げ 歌い踊らん

 

                                           機関誌「野外文化」第221号(平成28年8月25日)巻頭より

稲作文化としての新嘗祭(平成2年)

稲作文化としての新嘗祭

 30数年前までは稲作が盛んで“瑞穂国”と美称されていた日本で、本年11月23日夕刻から23日未明にかけて大嘗祭が行なわれる。大嘗祭は、新天皇が即位後、初めて行なう新しい穀物(米)を食べる新嘗の儀式のことであり、毎年行なわれている新嘗祭は稲作文化の一つである。

 瑞穂の国であった日本の基層文化は、なんといっても稲作文化である。たとえ日本が工業国になったとしても、日本人のアイデンティティーは、今もまだ稲作文化なのである。そのことを認識せずして新嘗祭はありえないし、日本人の共通した心のふる里は存在しないのである。

 稲は、日本の温暖な気候によく合い、厭地性が弱いために、同じ水田で、何百何千年間も栽培し続けることができた。その数千年の過程において、自然現象や作物に感謝と畏敬の念をもつようになった。特に主食の穀物となった米は、単なる食物ではなく、“生活”の一部であり、物の価値基準ともなり、穀霊の存在すら信じられるようになって、祭りや年中行事などを通して、精神世界にまで大きな影響をもつようになった。それ故に、稲作は、日本人の心であり、ふる里であり、生活の仕方や考え方である基層文化そのものとなった。

 社会は、まず“人”ありきであるが、人はより多くの人と共通した風習や伝統・言葉などの文化を心のより処、アイデンティティーとするものである。これまでの日本人の心のより処は自然と共に生きる心得であった。その共通の心得が道徳心なのである。

 北半球の宿命として、太陽が遠ざかって夜が一番長くて寒い冬至がある。その頃、稲は籾となって休眠期に入る。古代の稲作農耕民たちは、籾の再生能力がなくなることを心配したのか、冬至近くの旧暦11月の中の卯の日に、先祖の霊を祭り、収穫を感謝し、籾に宿る霊に活力を注ぎ込むための儀式を行なった。それが新嘗祭の起こりなのだと言われている。

 新嘗祭に類似した祭りは、北半球の農民の大半が行なっていた。特に、穀霊信仰の強い東南アジア北部から南中国にかけての稲作農耕民にはその傾向が強く、苗族や侗族には今も見られる。

 南中国の苗族は旧暦6月(7月の地方もある)中旬の卯の日に、“吃新附”と呼ばれる新嘗祭を行なう。

 当日の早朝に主人が田圃に赴き、稲穂を3本抜き取ってくる。その初穂を祖霊の祭壇に供えたあと、あらかじめ準備しておいた糯米の上にその未熟な籾を置いて蒸す。できあがると、それをまぜて茶碗に盛り祖霊に供えて線香をたき、感謝をささげ、豊作や一家の無病息災を祈ってから、家族がそろって食べる。

 

自然発生的な儀式

 日本でも、本来は、その儀式を各家や村で行なっていたようであるが、7世紀頃に大和朝廷が日本を統一してからは、天皇か農耕民を代表するかのように新嘗の儀式を行なうようになったといわれている。

 その悠久の政策によって、日本の稲作文化の原点が皇室に残ったようである。天皇家は、稲の種の保存と、栽培技術の向上や普及を義務とされ、日本民族の食料が毎年得られるための精神的手段として、新嘗の儀式を今日まで1200年以上も続けざるを得なかったのかもしれない。

 その儀式こそが、日本の農耕民族を束ねる権威であり、稲作文化の基本であり、自然への畏敬の念であった。それらは、稲作農耕民にとっては自然発生的な心得であり、宗教的な作為はあまり強くなかったものと思われる。だからこそ、時代を越えて続けてこられたのだろう。

 日本国が世界で最も豊かな工業国に発展し、自然と共に生きる知恵である稲作文化を必要としないのなら、新嘗の儀式はもう意味をなさない。ましてや、自然への畏敬の念を忘れて米を単なる食料とするなら、武器に勝る戦略物資なので、簡単に自由化はできない。しかし、米を基層文化とする国民の共通意識・コンセンサスが得られているならば、自由化を恐れることはない。

 62年ぶりに行なわれる大嘗祭のある今年は、二千数百年もかけて培ってきた稲作文化について、主義思想や宗教にこだわることなく、その本質を謙虚な気持ちで考えてみることが必要だろう。

            機関誌「野外文化」第105号(平成2年4月20日)巻頭より

稲に育まれた感性(平成5年)

稲に育まれた感性

1.米は稲の実

 ウルグアイ・ラウンドによって、“米”がよく話題にのぼっている昨今であるが、単に生産者と消費者の関係でしかなく、大切な人の心を育む教育的なことか無視されている。それに、日本の農民が栽培している作物は“稲”で、米はその実なのである。

 稲は千数百年もの長い間に渡って日本人を束ね、文化を育み、食生活を豊かにし続けてきた。極論すれば、稲が日本人たらしめてきたともいえる。その実である米は、単に主食というだけではなく、食生活や風習、価値観などにも大きな影響力をもっていた。日本では米や麦、粟、稗、豆などの五穀が食べられてきたが、古くから米を頂点とする文化体系が組まれていた。また、7世紀末に日本が建国されて以来、税としての米や貨幣米として国家に管理されてもいた。

 稲のような1つの栽培植物によって、民族がほぼ統一されてきた国は、日本以外に世界中どこにもない。だから、そのことを具体的に説明しない限り、他国に日本文化の成り立ちや、日本人と稲とのかかわりを理解させることはできない。特に、多民族、多文化国家で、米を食料品としか考えることのできないアメリカ人には理解され難いことである。

 

2.日本の稲作文化

 日本は南北に長い列島国で雨が多い。厭地性の少ない稲は、その日本の自然環境によく適応し、何百、何千年間も同じ田圃で栽培され続けてきた。

 稲は多年草であるが、毎年定期的に植えては刈り取るので、日本人にとって最も身近にある植物であった。そして、稲作農業の生産過程の種籾、代掻、苗代、早苗、田植え、青田、黄金色の稲穂、稲刈り、稲架け、脱穀、わらぐろ(わらにお)、切り株田などの仕事や風景は、季節感や自然を具体的に教えてくれ、1年という時の流れを伝えてくれた。

 また、稲の豊作を願い、病害虫を恐れ、収穫を神に感謝することによって予祝行事や祭り、年中行事などが発生し、今日まで続けられてきた。

 主食である米は、炊いたり蒸して食べるだけではなく、餅、団子、せんべいなどにして食べたり、酒、焼酎、酢などの原料にもなった。そればかりか、抽象的な精神世界にまで影響し、価値観、生活態度、思想、行儀作法などにもかかわりがあり、神祭りとしても貴重なものであった。

 稲わらでは、踏、ふご、草履、わらじ、わら沓、俵、わら縄、わら帚、畳など、多くのものが作られてきた。しかし、今、日本には使えるわらがない。日本人の生活に今でも大変重要な畳は、日本の稲わらが使えないので、韓国や台湾、中国のものを輸入している。

 稲は、単なる農作物ではなく、自然と共に生きてきた日木人に喜びや悲しみ、恐れや希望、季節や故郷などを与えてくれる付加価値もあったが、今では、米が単に食料として用いられるだけのようになってきている。日本人にとって、稲の存在価値が1/2にも1/3にも減少しているのである。

 

3.農業は人づくりの原点

 人間は、古代より食べ物を採ったり、栽培したり、保存したり、料理することによって、自分たちの文化を伝える機会と場としてきた。つまり、農業は食料を生産するだけではなく、生命あるものを育み、食べることによって感性をも培う人づくりの現場であった。その理念は、工業化が進んだ現代でも、多くの国、特に伝統を重んじるヨーロッパ諸国の人々にはまだ忘れられていない。しかし、経済的効率中心のアメリカ型の工業化を重視した戦後の日本は、農業を食料生産の手段とし、稲を米のなる草と化してきた。

 昔も今も、そしてこれからも、青少年教育にとって、農業は直接体験によって、創造力や活力を培う社会教育の現場であり、学校は、疑似体験や間接情報によって知識や技能を身につけるところであることに変わりはない。そして、稲作農業の社会目的は①国土保全②国民育成③食糧生産などであることを忘れてはならないのである。

 もし、日本の農林水産業が人づくりの原点であることを忘れたら社会の後継者を失ない、良い政策立案者を失って、日本は徐々に内部から哀退していくだろう。

 今後、いかなる高度な文明社会になったとしても、豊かさやゆとりは物や金だけでは成り立たたない。これからも、農林水産業のような自然と共に生きる心得が必要なのである。

             機関誌「野外文化」第123号(平成5年4月20日)巻頭より

 

日本人と自然(昭和51年)

日本人と自然

 人間が自然に適応して生きるために、考えだした生活の知恵が文化なら、文明はより快適に生きるために考えだされた物である。木にたとえれば日本の文化は、日本人にとっては台木であり、近代文明は接木された枝葉である。

 

1.感情豊かな日本人

 日本は世界の中でもっとも自然の豊かな国の1つである。それは、工業的天然資源という意味ではなく、人間が生きるに必要な食物を生産する条件が満たされているということであり、自然の復元力が強いという意味である。

 豊かな自然の中で、何千年間も生き続けた日本人の生活文化や風俗習慣は、自然に順応適応して生きるために考え、工夫された生活の知恵であった。だから、日本人の性格や文化や思考形態を知るためには、まず、日本の自然を知ることが大切であり、机上論的に欧米やアジア諸国と比較しても、容易に理解することはできない。あえて理論的に比較しようとするならば、どちらかに優劣をつけてしまうことになる。

 日本人の誰しもが、四季を知っているだろう。春になれば、生命の喜びを感じ、秋になればなんとなく悲しくなる。それは、人間の力ではどうにも仕難い自然の力によって、感情豊かな人間にさせられた結果である。日本人は、それを誰に向かって恨むことも、文明の利器によって変えることもできない。

 

2.自然から生まれる文化

 我々の周囲にあるすべてに目を向けて見よう。どれひとつ取りあげても、日本でできたものは、日本の自然と関りがある。民具・工芸・家・衣服・美術・思考方法・神話・物語・民謡・祭り・儀式・風習・食料・飲料など………。

 日本の自然に関りのないものは、外国から輸入したものである。また動植物においても、日本人の生活に何らかの関りがあったものには、必ず名前がつけられている。

 日本人の思考が複雑で、ひかえめなのは、日本の自然が複雑すぎ、そして、豊かすぎるからである。

 乾燥地帯や砂漠の中で生きる人々の思考は目的的で、自己主張が強い。それは自然が単純で貧しいからである。だから自然条件を無視して、いくら科学的理論によって比較しても、他国の文化を理解することは困難である。まず、自分たちの自然をよく理解し、自分たちの文化の成り立ちを理解することによって、他の自然条件から発祥した文化を理解することができる。

 

3.生活サイクルの必要条件

 日本の文化である華道も、茶道も、禅も、俳句も、その真髄は共通している。知識を得た日本人が自然と共に生きる喜びを知る手段として考えだしたものであって、単なる行為のためにあるのではない。

 今日の日本では、すべてに関して目的を忘れ、手段のみにとらわれている傾向があり、その手段を、より工夫するところに快感を覚えるような、異常な状態になっている。

 例えば、野外で活動することだが、野外で身体を動かすことが何のためかを忘れ、野外で活動することそのものの熟練者にならんとすることが目的とされかけていることである。

 我々は、スポーツのために野外で運動するのではなく、健康のためというよりも、生活サイクルの必要条件として野外で運動するのである。だから、スポーツ名などなくても、ルールがなくても、時間競争をしなくても、適当に全身を動かすだけでよい。

 人間が全身を活動させて汗をかくことは、スポーツのために必要なのではなく、自然の状態で日常生活が、スムーズに、快適に過ごせるためである。

 現在の野外での活動は、スポーツだとか、レジャーと呼ばれて、時間や順位やルールを競って、スポーツのために、レジャーのために全身を動かしているような錯覚にとらわれがちである。だから、華道のために花をいけ、茶道のためにお茶をたてるような形式ばかりが目につきやすく、人間が生活するための必要条件としての要素が隠されてしまっているので、何をしても納得いかないし、なんでもかんでもやってみなければわからないと、日々これ多忙に追われている。

 今、日本では、すべてが塾の時代だともいわれているが、それは、物事の真髄を知らずに、手段のみを学ぼうとするからである。手段では食の糧は得られても、生きる喜びの糧は得られない。

 

4.文化の再発見

 日本は明治時代以来外来語を取り入れて、その言葉の持つ意味やニュアンスを理解することなく、翻訳言葉と行為のみが普及した。特に自然に順応して考えだされた歴史的過程を知らずして、理論的華やかさや現象のみによって優劣をつけてきた。そのため、自分たちの大地に根を下した土着性をなおざりにしがちで、外来の自分たちと異なったものをうのみにしてきた。だから、外来語を通じての翻訳文化と自分たちの現実の社会生活が必ずしも一致していない。翻訳文化は他の自然条件から創られたものであり、現実の生活は、日本の自然条件によって培われたものである。

 特に、第二次世界大戦に負けて以来、日本は土着性の衰退がはげしく、まるで橘の台木に接木した温州みかんのように、根と葉の種類のちがうみかんの樹ができたような状態である。だから時々、接着部分で違和感を覚えて不安な状態になることがある。

 自然は人間に無視されても、認識されてもその存在には変わりない。しかし、人間は自然を認識していないと生命の糧(生きる喜び)を失う。自然の豊かな日本で、人々はそれを日常茶飯事として知っていたはずだが、今は忘れがちになって、接木の接点や葉の茂りばかりを気にしているようである。

 明治以来忘れがちになっていた、日本の自然が日本人にもたらした文化・文明・風俗・習慣・その他諸々の文芸をひっくるめて、台木である根の部分をよく理解し、現代との接点を一層強くする時がやってきた。

 すなわち、よい意味での文芸復興期であり、巨大な近代文明と日本の自然から培われた文化を土台にした独自性の発芽と育成期になったといえる。

      機関誌「ZIGZAG(現:野外文化)」第29号(昭和51年12月6日)巻頭より

日本文化の原点(昭和57年)

日本文化の原点

 神社の鳥居も千木、かつお木、高床式切妻造りの社も、かつて、日本の古代人が日常生活に使っていたものの名残りであり、稲作農耕民の象徴なのである。

 

1.不思議な言葉と型

 日常見慣れているものを、ふと「どうして?なぜ?」と再確認してみると、大変不思議なものが多い。特に、現代の青少年にとって、日本文化の諸事について疑問が多いのではないかと思われる。

 私はいろいろな国を訪れ、他民族の諸事について質問することが常であるが、反対に、日本について質問されると、どうしても説明しきれないことがある。特に、外国人が最も興味を持つ、日本のどこにでもあって、誰でも知っている、神社と鳥居について質問されると、どう説明してよいのかわからなかった。

 宗教については、いかように説明しても異教徒にはわかりにくいものだが、具体的に見ることのできる神社や鳥居の型については、あやふやな説明で納得させることはできない。日本人にとっては見慣れているので、特別な形状ではなく、なんとなく意味ありげに見え、手を合せたくもなるが、外国人、特に欧米人にとっては不思議で、奇怪な建造物でしかない。

 神社には、屋根の上に棟飾りがついている社がある。屋根の切妻から出ている2本の角を“千木”といい、棟木の上に横たえて並べた円柱状のものを“かつお木”という。この“千木”と“かつお木”という日本語がどうしてもわからないし、なぜ、どうして屋根に飾りつけているのか、質問されても答える知恵を持っていなかった。

 日本語には、意味の解明し難い名称がある。これは、過去において現代とは直接的なつながりを持たない文化が合流した、複合文化の証明でもある。数においても「ヒー・フー・ミー……」と「イチ、ニー・サン………」の2通りがあるように、いくつかの民族と文化の合流がなされてきたのが日本文化なので、日常生活に関わりの浅い日本語があっても不思議ではない。が、私は、日本文化の複合する以前の原型を求めてみようと思い、稲作文化の発祥の地ともいえる中国東南部の江南地方や雲南地方のいろいろな民族を訪れてみた。

 

2.門に鳥が止まって鳥居

 雲南高地の南麓に、アカ族と呼ばれる民族がいる。村を訪れると、必ずといっていいほど門があった。その門の笠木の上に、鳥の木偶が置いてある。

 村人たちは、目に見えない精霊の存在を信じていた。空中を自由に飛ぶ鳥は、精霊ののりものであり、使者であると信じている彼らは、村の入口の門まで鳥が精霊を連れてくるものと思っている。だから、門の笠木の上に、守護霊の使者である鳥の木偶を置くことによって、悪霊が村に侵入しないものと思っていた。結局、村の入口にある門は、村の守護霊を連れてきた鳥が止まるために、笠木をつけているのである。

 村人たちは、稲の種籾を蒔く前の4月に、必ず門を建てかえる。そのことによって、守護霊が門から村の中に入り、家や穀倉の中にある期間宿るものと思われている。だから、村人がその間に豊作祈願の祭を催し、ブランコに乗って空中をゆれると、精霊が喜んで一層稲の実のりがよくなるという。

 日本の神社の入口の門には鳥の木偶はない。しかし、はるか2000年も昔には、アカ族の村の門と同じ発想があったものと思われる。さもなければ、2本の柱を建てた上に笠木を載せる必要はないし、神社の前の門を鳥居などと呼ぶ必要もない。アカ族の守護霊は村の中のどこにでもいるが、日本人の守護霊は特定の場所、すなわち、神社にいると想定されているので、門が村のためのではなく、神社だけのものになっている。しかし、古代においては、アカ族と同じように門は村の入口にあったものと思われる。

 とにかく、神社の入口にある門の笠木は、神ののりものである鳥が止まって居る所であったと思えば、“鳥居”という名称かよく理解できる。

 

3.千木とかつお木の由来

 神社の屋根にとってつけたような“千木”や“かつお木”が何のためにあるのか、どう説明されても理解できなかったが、雲南高地の南部に住む、タイ族やアカ族の高床式入母屋造りの茅ぶき屋根を見て、その存在理由が確認できた。

 日本で“千木”と呼ばれる二本の角が屋根の切妻から突き出しているのは、屋根の両側の妻を風から守るため、補強用として両側から固定した丸竹が棟で交差し、反対側に屋根から出ている部分である。それは短いよりやや長い方が、棟押さえを固定するために便利である。

 “かつお木”と呼ばれるものは両側の屋根を棟まで葺きあげ、雨もりがしないように棟から両側に橋渡しをした茅を押さえる二本の竹、すなわち棟押さえを固定するため、棟に突き差した横木なのである。

 千木もかつお木も、茅ぶき屋根を補強するためには、なくてはならないものであり、もし、それらがなければ、屋根は風雨に弱く、一度の嵐で屋根の茅が吹き飛ばされてしまう。

 日本の神社の屋根にある千木やかつお木は、今日では棟飾りの1つで意味がはっきりしないが、はるか昔の先祖たちが、建物にその必要性を認め、固執した名残りであり、社会環境が変化し、自分たちの住む家を変形したとしても、神の宿る家だけには、祖先崇拝の象徴として残し続けてきたものにちがいない。ということは、日本の先祖は、雲南地方の農耕民と同じような稲作農耕文化を共有していたことになる。

 

⒋.稲作農耕民の象徴

 雲南地方の住居は、高床式入母屋造りである。家が高床になった理由は、雨がよく降る、湿地帯、蛇や野獣がいる、ねずみが多いなど、高温湿潤地帯などの要因が考えられる。静岡県の登呂遺跡には、四本柱の高床式切妻造りの穀倉を復元しているが、湿地帯で水稲栽培を営む人々には、高床式住居の方が土間式住居よりも快適な生活であったと思われる。

 高床家屋の場合、まず人間が空中に居ることのできる床を作らなければならない。次には、風雨に強い屋根を作る必要かおる。そのためには、風雨の抵抗の少ない、より低く、効果的な屋根が望ましい。そこで、四方に屋根をつけると風雨に強く、床の面積を最大に使用できることから、入母屋造りが考案された。

 雲南地方の穀倉はたいてい高床式切妻造りで、住家は高床式入母屋造りであるが、屋根が板であったり、瓦である場合は、千木もかつお木もなかった。ということは、屋根を茅もしくはわらでふかない限り、千木もかつお木も不要なわけである。現代の日本の家にも、それらは必要のないものである。

 日本人の日常生活にはかかわりの薄くなった出雲大社伊勢神宮など、多くの神社に、高床式切妻造りの社があって、その屋根にかつお木や千木があるのだが、この家造りの型は、そっくりそのまま、雲南地方の稲作農耕民が今も続けている。

 神社の鳥居も千木、かつお木、高床式切妻造りの社も、かつて、日本の古代人が日常生活に使っていたものの名残りであり、稲作農耕民の象徴なのである。中国大陸の江南地方から移住した雲南地方の稲作農耕民の生活文化と日本文化を重ねてみると、かなり重複する部分がある。

      機関誌「野外活動(現:野外文化)」第58号(昭和57年6月21日)巻頭より