日本語の2通りの数え方(昭和62年)

日本語の二通りの数え方

 日本人は、“いち、に、さん”と“ひい、ふう、みい”の2通りの数え方を使いわけたことにより、日本人特有の感情や考え方を培わせたのではあるまいか…。

 

1.言葉の使いわけ

 日本には古くから数の数え方が2通りある.この理由についてはまだ十分解明されてはいない。

 日本人が現在学校で習う1から10までの数の数え方は“いち、にい、さん、しい、ごう、ろく、しち、はち、きゅう(くう)、じゅう”であるが、日常の会話ではもう1つの数え方がある.

 “ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、や、ここ(ここの)、とう”

 子どもの伝承遊びなどでは、むしろこちらの数え方が多いし、文化的には幅の広い活用がなされている。

 どちらが古くて、どちらが新しいのかはっきりしないが、和語とされている“ひい、ふう、みい“の数え方が古いような気かする。

 1つの民族が、日常最もよく使われる言葉で、社会生活に大変重要な基礎語彙の数詞を自然に2通り使用するはずがないのだが、日本人があえて今日まで使い続けてきたのは、記録のはっきりしないはるか昔に、2つの民族が政治的に統合されたかどちらかが支配されたのか、さもなければ強い政治権力によって統制されたかである。しかし、自然と共に生きる民族の文化は他民族の借用語になじみにくく、武力や権力ではなかなか変えることのできないものである。例えば、今日のインドのように、100年以上も植民地となり、支配者の言葉である英語を公用語とし、独立後40年間もそうしているのだが。今も土着語が15以上使われている。もしかすると、“ひい、ふう、みい”の数え方が、日本土着の言葉なのかもしれない。

 

2.商業的と農耕的な数詞

 20数年来、中央アジアから東に住むモンゴロイドの諸民族を踏査し、数の数え方を聞き書きしてきたが、“ひい、ふう、みい”に類似した発音はどこにもなかった。その反面、“いち、にい、さん”の方は、チベット系諸民族の発音“チーク、ニー、ソム、シー、ンガ、ツーク、ヅン、ゲ、グ、チュー”によく似ているし、中国語の“イ、アル、サン、ス、ウ、リウ、チー、パー、チウ、シイ”にも類似している。

 とすると、“いち、にい、さん”の方が新しく、飛鳥又は奈良時代仏教文化の1つとして漢字と共に渡来したのかもしれない。ということは、2民族の統合ではなく、仏教文化を普及させようとする政治力によって統制された公用語の徹底ということになる。そのせいか、“いち、にい、さん”は学問的には漢語系の言葉だともいわれている。なんとなく感覚的に“いち、にい、さん”の数え方よりも、“ひい、ふう、みい”の数え方の方が庶民的で日本の生活文化になじんでいるし、応用が広くなされていることは事実である。

 物の数や重量など、近代的経済感覚を必要とする数え方はどうしても“いち、にい、さん”、“いっこ、にこ、さんこ”又は“いちキロ、にキロ、さんキロ”であり、“いっぽん、にほん、さんぼん”の方がぴったりしているが、物ごとを大まかに、しかも単位など必要としないような数え方は、“ひい、ふう、みい”“ひとつ、ふたつ、みつ”といった方がなんとなく使いやすい。

 実際に数えてみると、“いち、にい、さん”の方は、リズミカルで、自然に関わりなく積極的に生きようとする乾燥地帯の生活観を感じさせるが、“ひい、ふう、みい”の方は、うららかな春のようにのんびりしており、有機的な潤いのある緑の大地と共に生きる農耕民の営みが感じられる。

 

3.漢字の複雑な発音

 日本人が常用する漢字にも、呉音、漢音、唐音、慣用音の4つの発音がある。日本では古くからこれらの発音をごちゃまぜに使ってきたので、読み方が大変複雑である。

 例えば、“一”を漢音で“イッ”、呉音で“イチ”、“二”を漢音で“ジ”、呉音で“ニ”、“三”を漢音と呉音で“サン”と発音する。とすると、イチ、二、サンは漢音ではなく呉音である。

 “反”は漢音で“フン”、呉音で“ブン”、慣用音で“ブ”、“石” は漢音で“イシ”、呉音で“シャク”、慣用音“コク”、“灯”は漢音で“テイ”、呉音で“チョウ”、唐音で、“チン”、“行”は漢音で、“コウ”、呉音で“ギョウ”、唐音で“アン”と発音すると「広辞苑」に書いている.

 それでは、今日の中国で数の数え方はどのような発音になっているのか、私か現地で聞いた発音通りにカタカナで記してみると次のようになる.

 北京ではイー、アー、サン、スー、ウォー、リョー、チェ、パー、チュー、スー

 武漢ではイー、アー、サン、スー、ウー.リュウ、チー、パー、キュー、スー

 西安ではイ、アール、サン、スー、ウー、リョ、チイ、バ.ジュウ、シ

 上海ではイェ、二、セイ、スー、ンー.口、チェ、パ、チュー、サ

 福建省ではエイ、ネイ、サン、セイ、ウゴ、リュ、ツェイ、パイ、カオ、セイ

 広東省ではヤッ.イ.サム、セイ、ウ、口、チャッ、バー、ガウ、サッ

 中国各地で数詞の数え方がかなりちがうのである.だから、日本語のいち、に、さんの発音が、千年以上も前に中国大陸から伝来したものだとしても、それはすでに日本語なのであって、中国語ではないのである.

 民族戦争の絶えない大陸では、支配民族がたえず代るので、使用する言葉も変化する。だから、現在.100年前、500年前、800年前、1000年前の中国はいずれも同じではなく.今の中国は500年前の中国ではないのである。

 日本は大きな民族戦争かなかったので、千数百年前に使われた言葉が.少々変化はあってもほぼ同じ型で今も使われており、千年前の日本と今の日本がほぼ同じという大変珍らしい民族社会なのである。

 

4.和語の数え方

“いち、にい、さん”の数え方は、今日の日本人なら誰もが知っていることなので説明を必要としないが、“ひい、ふう、みい”の方は少々説明しないと理解できないのではないかと思われる。

 因に、二十、二十歳、二十年を何と発音するか、若い者で知っている人は少ないだろう。二十は“はた”、二十歳は“はたち”、二十年は“はたとせ”である。

 三十を“みそ”といい、三十歳を“みそじ”という。これは実際には三十路と書いて“そじ″というのだが、四十歳“よそじ”、五十歳“いそじ”、六十歳“むそじ”、七十歳“ななそじ”、八十歳“やそじ”のように、年齢を意味する言葉になっている。九十は“ここのそじ”というので、これで年齢を意味するが、百は“もも”で、百歳は百年と同じ発音で“ももとせ”ということになっている。

 三十の“みそ”はいろいろ使われており、三十日を“みそか”と呼び、月の末日を意味する言葉である。だから“みそかそば”といえば、月末を祝って食べるそばであり、“みそか払い”といえば月末払いという意珠である。また、1年には“三十日(みそか)”が12回あり、最後のみそかは“大晦日(おおみそか)”、一般的には大晦日と書くことになっている。

 七七日と書いて“なななのか”と発音するのだが、これは仏教用語の四十九日のことである。

 それでは、十一、十二などはなんと発音するのか突然尋ねられると大半の日本人か困ってしまう。和語の数え方は、両手両足の指を全部使う二十進法であったようである。

 十一は“とうあまりひとつ″、十二は“とうあまりふたつ”、十七は“とうまりななつ”となり、あまりの“あ”をぬかして発音する。21日は“はつかあまりひとひ”、24年は“はたあまりよねん”、32歳は“みそちあまりふたつ”、110歳は“ももちまりとう”と“あ”をぬいて発音する。

 “あまり”という日本語を調べると「数詞についてさらに余分のあることを示す。10以上の数を表わす場合には、数詞と数詞との間にはいることもある」と説明してある。

 “ひと、ふた、みー、よー、いつ、む、なな、や、ここ、とう”とも発音するが、“ひい、ふう、みい、よう、いつ、む、なな、や、この、とう”ともいうし、“ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とう”と発音することもある。なんとなく未整理で未発達のようで使いにくい一面もある。使いやすさでは、十進法の漢語系とされている“いち、に、さん”の方がはるかに勝っている。しかし、日本文化には漢語系の数では表現しきれないものがある。この2種の数詞の発音が日本人にいろいろな感情や考え方を培わせたのではあるまいか…。

 日本人が便利さだけを追求するのではなく、2通りの数の数え方を今日まで上手に使いわけてきたことは、経済的社会と自然と共に生きる定住農耕民としての文化的社会の二面性を培うのにも役立っていたのかもしれない。しかし、今日の日本人は“ひい、ふう、みい”の方を忘れがちであり、新人類といわれる人々には、なんのことかわからなくなりつつある。そして、欧米からの借用語であるカタカナが日常生活に氾濫して、基礎語彙すら不明になりつつある。

             機関誌「野外文化」第89号(昭和62年8月28日)巻頭より