稲作文化としての新嘗祭(平成2年)

稲作文化としての新嘗祭

 30数年前までは稲作が盛んで“瑞穂国”と美称されていた日本で、本年11月23日夕刻から23日未明にかけて大嘗祭が行なわれる。大嘗祭は、新天皇が即位後、初めて行なう新しい穀物(米)を食べる新嘗の儀式のことであり、毎年行なわれている新嘗祭は稲作文化の一つである。

 瑞穂の国であった日本の基層文化は、なんといっても稲作文化である。たとえ日本が工業国になったとしても、日本人のアイデンティティーは、今もまだ稲作文化なのである。そのことを認識せずして新嘗祭はありえないし、日本人の共通した心のふる里は存在しないのである。

 稲は、日本の温暖な気候によく合い、厭地性が弱いために、同じ水田で、何百何千年間も栽培し続けることができた。その数千年の過程において、自然現象や作物に感謝と畏敬の念をもつようになった。特に主食の穀物となった米は、単なる食物ではなく、“生活”の一部であり、物の価値基準ともなり、穀霊の存在すら信じられるようになって、祭りや年中行事などを通して、精神世界にまで大きな影響をもつようになった。それ故に、稲作は、日本人の心であり、ふる里であり、生活の仕方や考え方である基層文化そのものとなった。

 社会は、まず“人”ありきであるが、人はより多くの人と共通した風習や伝統・言葉などの文化を心のより処、アイデンティティーとするものである。これまでの日本人の心のより処は自然と共に生きる心得であった。その共通の心得が道徳心なのである。

 北半球の宿命として、太陽が遠ざかって夜が一番長くて寒い冬至がある。その頃、稲は籾となって休眠期に入る。古代の稲作農耕民たちは、籾の再生能力がなくなることを心配したのか、冬至近くの旧暦11月の中の卯の日に、先祖の霊を祭り、収穫を感謝し、籾に宿る霊に活力を注ぎ込むための儀式を行なった。それが新嘗祭の起こりなのだと言われている。

 新嘗祭に類似した祭りは、北半球の農民の大半が行なっていた。特に、穀霊信仰の強い東南アジア北部から南中国にかけての稲作農耕民にはその傾向が強く、苗族や侗族には今も見られる。

 南中国の苗族は旧暦6月(7月の地方もある)中旬の卯の日に、“吃新附”と呼ばれる新嘗祭を行なう。

 当日の早朝に主人が田圃に赴き、稲穂を3本抜き取ってくる。その初穂を祖霊の祭壇に供えたあと、あらかじめ準備しておいた糯米の上にその未熟な籾を置いて蒸す。できあがると、それをまぜて茶碗に盛り祖霊に供えて線香をたき、感謝をささげ、豊作や一家の無病息災を祈ってから、家族がそろって食べる。

 

自然発生的な儀式

 日本でも、本来は、その儀式を各家や村で行なっていたようであるが、7世紀頃に大和朝廷が日本を統一してからは、天皇か農耕民を代表するかのように新嘗の儀式を行なうようになったといわれている。

 その悠久の政策によって、日本の稲作文化の原点が皇室に残ったようである。天皇家は、稲の種の保存と、栽培技術の向上や普及を義務とされ、日本民族の食料が毎年得られるための精神的手段として、新嘗の儀式を今日まで1200年以上も続けざるを得なかったのかもしれない。

 その儀式こそが、日本の農耕民族を束ねる権威であり、稲作文化の基本であり、自然への畏敬の念であった。それらは、稲作農耕民にとっては自然発生的な心得であり、宗教的な作為はあまり強くなかったものと思われる。だからこそ、時代を越えて続けてこられたのだろう。

 日本国が世界で最も豊かな工業国に発展し、自然と共に生きる知恵である稲作文化を必要としないのなら、新嘗の儀式はもう意味をなさない。ましてや、自然への畏敬の念を忘れて米を単なる食料とするなら、武器に勝る戦略物資なので、簡単に自由化はできない。しかし、米を基層文化とする国民の共通意識・コンセンサスが得られているならば、自由化を恐れることはない。

 62年ぶりに行なわれる大嘗祭のある今年は、二千数百年もかけて培ってきた稲作文化について、主義思想や宗教にこだわることなく、その本質を謙虚な気持ちで考えてみることが必要だろう。

            機関誌「野外文化」第105号(平成2年4月20日)巻頭より