日本文化の原点(昭和57年)

日本文化の原点

 神社の鳥居も千木、かつお木、高床式切妻造りの社も、かつて、日本の古代人が日常生活に使っていたものの名残りであり、稲作農耕民の象徴なのである。

 

1.不思議な言葉と型

 日常見慣れているものを、ふと「どうして?なぜ?」と再確認してみると、大変不思議なものが多い。特に、現代の青少年にとって、日本文化の諸事について疑問が多いのではないかと思われる。

 私はいろいろな国を訪れ、他民族の諸事について質問することが常であるが、反対に、日本について質問されると、どうしても説明しきれないことがある。特に、外国人が最も興味を持つ、日本のどこにでもあって、誰でも知っている、神社と鳥居について質問されると、どう説明してよいのかわからなかった。

 宗教については、いかように説明しても異教徒にはわかりにくいものだが、具体的に見ることのできる神社や鳥居の型については、あやふやな説明で納得させることはできない。日本人にとっては見慣れているので、特別な形状ではなく、なんとなく意味ありげに見え、手を合せたくもなるが、外国人、特に欧米人にとっては不思議で、奇怪な建造物でしかない。

 神社には、屋根の上に棟飾りがついている社がある。屋根の切妻から出ている2本の角を“千木”といい、棟木の上に横たえて並べた円柱状のものを“かつお木”という。この“千木”と“かつお木”という日本語がどうしてもわからないし、なぜ、どうして屋根に飾りつけているのか、質問されても答える知恵を持っていなかった。

 日本語には、意味の解明し難い名称がある。これは、過去において現代とは直接的なつながりを持たない文化が合流した、複合文化の証明でもある。数においても「ヒー・フー・ミー……」と「イチ、ニー・サン………」の2通りがあるように、いくつかの民族と文化の合流がなされてきたのが日本文化なので、日常生活に関わりの浅い日本語があっても不思議ではない。が、私は、日本文化の複合する以前の原型を求めてみようと思い、稲作文化の発祥の地ともいえる中国東南部の江南地方や雲南地方のいろいろな民族を訪れてみた。

 

2.門に鳥が止まって鳥居

 雲南高地の南麓に、アカ族と呼ばれる民族がいる。村を訪れると、必ずといっていいほど門があった。その門の笠木の上に、鳥の木偶が置いてある。

 村人たちは、目に見えない精霊の存在を信じていた。空中を自由に飛ぶ鳥は、精霊ののりものであり、使者であると信じている彼らは、村の入口の門まで鳥が精霊を連れてくるものと思っている。だから、門の笠木の上に、守護霊の使者である鳥の木偶を置くことによって、悪霊が村に侵入しないものと思っていた。結局、村の入口にある門は、村の守護霊を連れてきた鳥が止まるために、笠木をつけているのである。

 村人たちは、稲の種籾を蒔く前の4月に、必ず門を建てかえる。そのことによって、守護霊が門から村の中に入り、家や穀倉の中にある期間宿るものと思われている。だから、村人がその間に豊作祈願の祭を催し、ブランコに乗って空中をゆれると、精霊が喜んで一層稲の実のりがよくなるという。

 日本の神社の入口の門には鳥の木偶はない。しかし、はるか2000年も昔には、アカ族の村の門と同じ発想があったものと思われる。さもなければ、2本の柱を建てた上に笠木を載せる必要はないし、神社の前の門を鳥居などと呼ぶ必要もない。アカ族の守護霊は村の中のどこにでもいるが、日本人の守護霊は特定の場所、すなわち、神社にいると想定されているので、門が村のためのではなく、神社だけのものになっている。しかし、古代においては、アカ族と同じように門は村の入口にあったものと思われる。

 とにかく、神社の入口にある門の笠木は、神ののりものである鳥が止まって居る所であったと思えば、“鳥居”という名称かよく理解できる。

 

3.千木とかつお木の由来

 神社の屋根にとってつけたような“千木”や“かつお木”が何のためにあるのか、どう説明されても理解できなかったが、雲南高地の南部に住む、タイ族やアカ族の高床式入母屋造りの茅ぶき屋根を見て、その存在理由が確認できた。

 日本で“千木”と呼ばれる二本の角が屋根の切妻から突き出しているのは、屋根の両側の妻を風から守るため、補強用として両側から固定した丸竹が棟で交差し、反対側に屋根から出ている部分である。それは短いよりやや長い方が、棟押さえを固定するために便利である。

 “かつお木”と呼ばれるものは両側の屋根を棟まで葺きあげ、雨もりがしないように棟から両側に橋渡しをした茅を押さえる二本の竹、すなわち棟押さえを固定するため、棟に突き差した横木なのである。

 千木もかつお木も、茅ぶき屋根を補強するためには、なくてはならないものであり、もし、それらがなければ、屋根は風雨に弱く、一度の嵐で屋根の茅が吹き飛ばされてしまう。

 日本の神社の屋根にある千木やかつお木は、今日では棟飾りの1つで意味がはっきりしないが、はるか昔の先祖たちが、建物にその必要性を認め、固執した名残りであり、社会環境が変化し、自分たちの住む家を変形したとしても、神の宿る家だけには、祖先崇拝の象徴として残し続けてきたものにちがいない。ということは、日本の先祖は、雲南地方の農耕民と同じような稲作農耕文化を共有していたことになる。

 

⒋.稲作農耕民の象徴

 雲南地方の住居は、高床式入母屋造りである。家が高床になった理由は、雨がよく降る、湿地帯、蛇や野獣がいる、ねずみが多いなど、高温湿潤地帯などの要因が考えられる。静岡県の登呂遺跡には、四本柱の高床式切妻造りの穀倉を復元しているが、湿地帯で水稲栽培を営む人々には、高床式住居の方が土間式住居よりも快適な生活であったと思われる。

 高床家屋の場合、まず人間が空中に居ることのできる床を作らなければならない。次には、風雨に強い屋根を作る必要かおる。そのためには、風雨の抵抗の少ない、より低く、効果的な屋根が望ましい。そこで、四方に屋根をつけると風雨に強く、床の面積を最大に使用できることから、入母屋造りが考案された。

 雲南地方の穀倉はたいてい高床式切妻造りで、住家は高床式入母屋造りであるが、屋根が板であったり、瓦である場合は、千木もかつお木もなかった。ということは、屋根を茅もしくはわらでふかない限り、千木もかつお木も不要なわけである。現代の日本の家にも、それらは必要のないものである。

 日本人の日常生活にはかかわりの薄くなった出雲大社伊勢神宮など、多くの神社に、高床式切妻造りの社があって、その屋根にかつお木や千木があるのだが、この家造りの型は、そっくりそのまま、雲南地方の稲作農耕民が今も続けている。

 神社の鳥居も千木、かつお木、高床式切妻造りの社も、かつて、日本の古代人が日常生活に使っていたものの名残りであり、稲作農耕民の象徴なのである。中国大陸の江南地方から移住した雲南地方の稲作農耕民の生活文化と日本文化を重ねてみると、かなり重複する部分がある。

      機関誌「野外活動(現:野外文化)」第58号(昭和57年6月21日)巻頭より