活力のなくなった日本(平成22年)

活力のなくなった日本

1.平和ぼけで主体性が弱い 

戦後の日本は、経済活動や福利を第1に考え、国威の高揚や国が偉大であるよりも、個人の自由や幸福を目指してきた。しかも、自国の安全保障を武力よりも国際法や規則等に頼り、主体性の弱い国際化を目標とした。

 しかし、国家の自立のない国際化は成立し難く、個人の自由や幸福は物や金銭だけでは続かない。自由や幸福、平和な時代が半世紀以上も続けば、何が自由で、何が幸福なのか判断がつかなくなり、多くの人が平和ぼけして、不満や不安を感じるようになる。

 今日の若者は、“生きる力”としての主体性や意欲、思考力、コミュニケーション能力等や、“感じる心”が弱いとされているが、平和で満たされた社会に生まれ育つ人間は、教育や訓練をされない限り、そうなるのは当たり前のことである。

 

2.生きる力を身につけない子どもたち

 人間は生まれながらに文化を身につけた動物ではない。文化は、現代の子どもたちが生まれる以前からあるが、遺伝するものではないので、生後に見習うか、教えられない限り身につかない。

 世界に例がない程、平和で豊かな、しかも個人の自由や権利・欲望等が満たされがちで、合理的・科学的社会である日本で、生まれ育っている子どもたちが、“生きる力”や“感じる心”、それに“道徳心”等が弱いとされるのは、大人の社会的義務と責任が果たされていないことである。

 その大人が、豊かで活力ある科学的文明社会を安定・継続させるために、今、子どもたちに何を、どうしてやればよいのかを考えて、社会的に行動しない限り、子どもたちの多くは自ら文化を習得し、生きる力を身につけたよりよい社会人になろうとはしない。

 

3.60%に必要な教育

 人類は長い歴史を持っているが、自然の状態ではよりよく生き、よりよい社会人になろうとする人は少ない。いつの時代にも約20%の人々は、自主的に行動し、考えることができるが、大半の約60%の人々は、誰かに教えられたり、導かれたりしない限り、よりよく生きようとはしないし、物事に納得することはできない。後の約20%の人々は、何らかの形で誰かの保護や支援が必要なのである。

 よりよい社会人を育成する教育の在り方は、古代から様々な形で続けられてきた社会人準備教育、現代的に表現すれば、“青少年教育”のことである。

 オランダの歴史家“ヨハンーホイジンガ”は、“ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)”という、有名な著書の巻頭に、“遊びは文化より古い”と書いてある。

 人類は、文化を身につける前から、子ども時代に誰かを見習って他と共に遊ぶことによって、社会人になる準備をし、生きるに必要な知恵、力を徐々に身につけてきた。しかし、よりよい社会人として人生を全うできるのは、約20%でしかないので、いつの時代にも社会人準備教育で最も注意しなければならないのは、大半である約60%の子どもたちの資質の向上を促すことである。

 

4.日本を活気づける社会人準備教育

 数万年の歴史をもつ人類の社会的遺産である文化を、次の世代に伝えるには、近代的な言葉や活字、視聴覚機器等による方法だけでなく、文化以前からあったとされる“遊び”等を通して見習う、見覚える体験的学習活動、すなわち“体験活動”の機会と場が重要である。

 人は生まれた後に、誰でもよりよい社会人になるための学習や教育される機会と場が与えられなければならない。本来は、社会人準備教育である見習い体験的学習活動の機会と場が、家庭や地域社会に日常的にあった。しかし、今ではそのような社会人育成としての教育機能はなくなっている。

 それでは学校はどうかと言えば、生きる力や感じる心、それに道徳心等は、生活現場に必要なものであって、教育や学問のためにあるのではないので、言葉や活字、視聴覚機器等によって教え、伝えられてもなかなか身につかないし、実践し難い。

 今日の日本は、生活現場を知らない人が多く、活力が弱くなり、価値観が定まらない不透明な時代に突入している。活力のある日本にするには、まず、よりよい元気な社会人を育成する社会人準備教育(青少年教育)によるしかない。

            機関誌「野外文化」第202号(平成22年4月20日)巻頭より