文明に犯された子どもたち(平成9年)

文明に犯された子どもたち

1.作られたひ弱さ

 「助けてくれ!」

 文明に犯された子どもたちの悲鳴が、日本の至る所で発せられている。しかし、金権主義と利己主義に犯された大人たちの耳には入らず、見ぬふりをしている。

 日本が経済的発展に邁進する昭和40年代初めから、大人たちは、子どもたちの素朴な遊びや感動の時を取り上げ、物質的豊かさと、経済的価値観による時の概念を一方的に押しつけた。

 その反面、叱ることも、生活文化を伝えることもせず、学び方のテクニックばかりを気にして、ひたすら知的好奇心を煽り、自分たちと違った世界に住むように仕向けてきた。

 私たちにとって、何が良くて、何が悪いか、何を恐れ、何を恐れるべきではないか。そして、何をし、何をしてはいけないかという、社会人の基本的能力(野外文化)を伝承しないで、子どもたちをひ弱な文明人に仕立て上げてしまった。

2.文明の落とし子たちの反逆

 昭和50年代初頭、10代の青年が肉親を金属バットで殴り殺した。その10年後には青年が、複数の少女を誘拐して、惨殺した。そして20年後、14歳の少年が10歳の子どもを殺害し、斬首を自分の通う中学の校門にさらした。

 今日では、少年少女たちか平気で人を殺したり、質の悪いいじめをしたりする。そして、売春、薬物乱用、窃盗、登校拒否、自殺等が多くなっている。科学万能主義に邁進してきた日本では、このような子どもの出現は何も不思議ではない。起こるべくして起こった諸々の社会現象なのだ。

 私たちは、絶えず「教育は何をすべきか」を話題にはするが、この20年問、いや、昭和42年秋の「もやしっ子」騒動以来、30年間も評論ばかりで何もしていなかったのではないか。

 東南アジアの熱帯雨林や南米のアマゾン川森林伐採による自然破壊には気をもむが、日本の身近にある豊かで美しい自然破壊には、気づかないふりをするのと同じことだ。

 川に清い水が流れ、草木の生えた野や山があり、水を湛えた青い田圃やきれいな海浜があり、魚や烏や獣物たちがいることは、誰もが望むことである。

 科学技術の進歩と、物質的豊かさと、経済的発展だけが私たちの社会生活の目的ではない。発展した科学技術と経済力によって、自然と共に生きる豊かさと平和をつくり出すのが、私たち日本人の役目なのだ。

3.必要になった野外文化教育

 今、文部省は、体育学系の先生方を中心として、青少年の心を育むために“野外教育”という言葉をにわかに使い始めた。これはアメリカの“outdoor education”又は”outdoor activity”の翻訳語で、戦後間もなくから体育学用語として使われていたが、未だに何の定義も理論づけもない。もう翻訳語を使って標語的に形を整えればことが済む時代ではない。

 野外文化教育とは、日本に古来からある屋外でのいろいろな青少年健全育成活動の総称として、昭和60年に私が創始した人間学としての現代用語で、体育学的な言葉ではない。野外文化教育は、自然とともに生きる人間のあり方、生き方等の理念を基本にした、生きがい教育である。まさしく、自然と共に生きる知恵、心構えを具体的に伝えることなのだ。

 40年前の日本にはこのような教育理念は必要なかった。しかし、工業立国としての道を進み始め、伝統や文化、自然、信頼、恩愛の絆等を無視し始めた、昭和40年代初め頃から必要になってきた。

 そのことに気づかない人々が、人類が数万年もかけて築き上げてきた文化遺産を簡単に捨て、技術的発展と物の豊かさを追い求めることによって、無力な子どもたちを知らず知らずのうちに犠牲にし、かけがえのない自然までも破壊してきた。

4.孤独な子どもたちを救え

 子どもたちは、故郷、自然、生きがい、信頼、畏敬、忍耐等、人類の多くの文化遺産を伝えられないまま成長した。豊かな日本の文明的な犠牲者である子どもたちが、昭和40年代から助けを求めて叫び続けている。

 子どもは、弱くて、非社会的で、非人道的な一面を持って生まれてくる。その子どもたちを野外文化教育によって、自然を愛しむ、より良い社会人に育てるのが大人や親の役目であり、社会的義務である。

 子どもたちを素朴に育てよう。子どもたちを明るく元気に育てよう。子どもたちを子どもらしく育てよう。

 今からでも遅くはない。孤独で淋しく、不安に戦き、ピエロのように道化ている子どもたちを救おう。

 その文明に犯された子どもたちを、自然の力で救う手段が“野外文化教育”であり、文明に犯されないよう“生きぬく力”を育成する新しい教育理念が、“野外文化論”である。

            機関誌「野外文化」 第149号(平成9年8月20日)より