小中学生に生活体験を(平成元年)

小中学生に生活体験を

 地域社会における社会人準備教育の機能が衰退している今日の日本では、教育も育成も学校に頼るしかあるまい。そこで、国家の政策として学校教育の中に、基本的能力を育成するための生活体験の授業を、取り入れることが必要不可欠となる。

1.抽象的教育の普及

国会議員の文教委員会では、最古参の一人である海部さんが首相になった。しかし、所信表明演説の内容は“さすが”と思える点は少なかった。教育界では、巣ごもり現象や非行、援助交際、犯罪、いじめなど青少年の非社会的問題が多いのに、健全育成に関して具体案は何もなかった。

 「公正で人間性豊かな社会づくり」「他人へのいたわり」「健全な青少年の育成」などと声高に叫んだが、もう何十年も聞き続けている同じ内容の抽象論で、具体的にどうするかがなく、社会的にはますます悪くなる傾向にある。

 戦後の日本には、ものごとの善悪や価値観の基準、人物の良し悪しの見本がはっきりしていなかった。また、変えてはいけないこと、変えなければならないこと、変わらないであろうこと、変わるであろうことの区別ができず、なんとなく、変えなければならない、変わるであろうという零囲気に浸っていた。そして、文化とか伝統というものの存在と価値を見失い、伝承することを忘れてもいた。特に教育界では抽象的な教育学論が多く、受験用の塾が氾濫し、原体験を通じて、人間性や社会性、そして個性を豊かにするような人づくりのための具体的な教育は無視されがちであった。

 青少年教育は、具体的な見本や善悪や価値観の基準がなくては、十分な効果を期待できない。もともと、教育とは民族的、国家的なものであるが、戦後の日本はそれを否定して、知識や技術だけを教え、個人的な存在と主観的判断を重視する傾向が強かった。

 学校教育そのものが抽象的で、受験用中心の産業化した教育が絶対唯一と見なされるようにもなった。そのため、教育か人づくりのためではなく、知識習得の場になってしまい、ますます産業化か強くなり、青少年の健全育成までが、美辞麗句の標語になっている。

2.文明的社会の落し穴

 文化とは、自然に順応して生きる知恵や方法のことであるが、文明とは、自然を都合のよいように変える手段や道具などのことであるので、文明が発展すれば、人間は無意識のうちに主観的になり、より都合のよい環境の中にいることになる。

 テレビ、ビデオ、パソコン、ワープロ、ラジオ、ステレオなど、カタカナ文字の視聴覚機器が発展し、文明化か進むと、人間は孤立化して非社会的な生活観を身につけ、自然を都合のよいように変化させ、季節を無視しがちになる。

 こうした生活か続けば、やがて非社会的、非人間的、非健康的であることに気づく人は、経過を知っている者であるが、結果しか知らない青少年は、良し悪しの判断がつかず、文明的社会の落し穴にころげ込み、単純で主観的な価値観を身につけがちである。

 その1つが“巣ごもり″である。巣ごもりとは、自分の世界、又は家の中にこもりがちな、非社会的行為のことである。これは、自閉症に類似した病的な感情と、主観的で安易な逃避行と快楽主義によるものである。

 視聴覚機器の発展によって、映像と音による疑似体験、間接体験は、知識や情報を豊かにするが、自然と共に生きる知恵や人間性、社会性を豊かにすることはできないので、巣ごもりになりがちである。

 今日の青少年の多くは、長電話を普通のように思っている。夜中に、1時間も2時間も電話することは、ストレス解消、娯楽、コミュニケーションなどの必要条件と考えている。直接会って話すと疲れるし、めんどうくさい、それにゆっくりできないというのである。それは、向かい合う会話の経験が少なく、表情から相手の心を汲み取る心得を知らず、思いやりやいたわり合う満足感を身につけていないからである。これらの感情は、素養と呼ばれるもので、原体験を通じてのみ育まれる智恵なのである。

 長電話をも巣ごもり現象とするならば、今日の青少年の8、90%は、すでに高等な文明的社会の落し穴に入っていることになる。民主主義では絶対多数を“善”とするので、非社会的な“巣ごもり”も青少年教育にとっては正常なのかもしれないが、人類史の中では、決して正常ではない。

3.古代からの人づくり

 人間は、古代からいつの時代も“よりよい社会人”を育むために努力してきた。その基

本は、社会人としての基本的能力の伝承と、肉体的機能の向上を図ることであった。社会人の義務として、子どもたちの成長に手を貸して人づくりを心がけてきた。すなわち、“青少年の健全育成”は、古代から社会の重要課題であり、政治の大目的であった。だから教育などという言葉で表現する必要はなかった。それよりも、日常生活で具体的に、変えてはいけない、変わらないであろう基本的能力を培い、はぐくむ努力を重ね、生活の知恵や文化、伝統を守り続けてきた。

 ところが、戦後の日本は、社会のすべてが変わるであろうとの錯覚に、人づくりの基本までも迷いがちであった。そのため、机上の抽象的な教育学論を主張し、「健全育成」「親切運動」「緑化運動」「人づくり」などの抽象的な標語化した政策を叫ぶことに金と時間をかけるようになってしまった。

 人づくりの原点は、青少年の健全育成であり、よりよい社会人になるための生活訓練をすることである。それが、価値基準を失った戦後においては、教育、しかも、知識、情報、技能を中心とする学校教育か全てであるかのごとくに思われている。

 21世紀への人づくりは、青少年の健全育成と学校教育の両方が重要なのであって、室内で行なわれる抽象的な理論教育だけであってはならない。学校を中心とする理論教育は勿論重要であるが、具体的な原体験教育も怠ってはならない。

 古代からの人づくりは、自然体験や遊び、生活体験、祭りや年中行事などの野外文化活動を、異年齢の集団で行なう共通又は共同体験であった。日本にも健全育成の知恵や事例は古代からいっぱいあった。しかし、それらは理論的に体系化されていなかった。明治以後、欧米からの体系化された理論を重視したため、日本の伝統的な健全育成の在り方はないがしろにされた。特に、戦後は、調査・研究する学者も少なく、又、日本人が評価しなかったこともあったが、古代からの人づくりの知恵は、社会人としての基本的能力を育むための具体的な生活体験であった。

 すなわち、人類に共通する生活態度を身につけさせる生活体験こそ、古代から変わることのない人づくりの原点なのだが、今日の子どもたちは、日常生活でその機会と場に恵まれることは少ない。とすれば。あえて教育又は健全育成として、その機会と場を国策によって均等に与えてやることが必要なのである。

 地域社会における社会人準備教育の機能が衰退している今日の日本では、教育も育成も学校に頼るしかあるまい。そこで、国家の政策として学校教育の中に、基本的能力を育成するための生活体験の授業を取り入れることが必要不可欠となる。

 例えば、小学4年、5年、6年で1週間、中学1年、2年、3年で10日間など、日常生活から離れた、野外を中心とする生活体験が学校教育の正課として取り入れられることが、高等な文明的社会における“人づくり”に必要条件となってくる。

 そして更に。高校2年生には、2週間の生活体験を持たせることが望ましい。さもないと、衣・食・住の保証は可能だが、精神的な心の保障は不可能なので、結果としての文明的社会に暮すこれからの人々が、人間らしさを失って、かえって不幸な人生を暮すことになる。

            機関誌「野外文化」第102号(平成元年10月25日)巻頭より