愛と優しさの戦い(昭和55年)

愛と優しさの戦い

 文明が発展し、文化が向上してくると、優しさが望まれるが、愛のない優しさは刹那的で無責任な行為になりがちだ。

1.望まれる言葉には剌がある

 愛と優しさは相似的なイメージにあるが、色で表現すると、愛は赤色、優しさは白色で、愛×優しさは桃色…。いずれも美しい色であり、誰しもが時と場合によっては意識する情感的な色である。

 言葉を色で表現すると、その意味のちがいがはっきりするが、創造性に欠け、型にはまってしまう。文字で表現すると創造をかきたてられ、自分好みに組み立てる面白さと不可解さがある。

 愛も優しさも、書きやすく、使いやすく、ロマンチックで美しい言葉である。だから何事につけても使いたくなり書きたくなる。しかし、その意味をよく考え、具体的に理解しようとすると、大変難解で優柔不断である。

 愛と優しさは誰からも望まれ、誰にでも要求したい美しいよい言葉で、誰にでも好かれている。しかし、それを実践しようとすると、長くて細い針でチクリチクリと刺され、身も心も痛みに悲鳴をあげてしまう。

 言葉として書いたり、使ったりしている場合や、色として表現するには大変美しい言葉なのだが、日常生活の中では、これほどデリケートで扱いにくいものはない。少し気を緩めるとすぐに目を隠し、ちょっと強気になると耳をふさぎ、気にかけないと口をおおい、気に

しすぎると鼻をふさぎ、存在を認めないと触覚を麻痺させられてしまう。

 この美しい、素晴しい言葉をどう扱えばよいのか、万民等しく迷うのも無理はないが、美しさに負けてはいけない。時に応じては、木刀を大上段に構え、「さあ!こい…」と叫んだり、冥想にふけり、音無しの構えをしたり、カラスが驚くほどアホウアホウと大笑いしながらも、美しさの陰にある刺が何であるか、その本質を十分に見抜くことが重要である。

2.愛は動物的な独占欲

 愛は男性的か女性的かと言えば男性的であり永続的で、しかも非社会的な心理によって育まれた感情でもあるので、独占欲が強く闘争的である。だから、それに引きつけられ、慕い、慈しみ、可愛がる気持が強くなる。

 となると、“愛を与えよう”、“他人を愛しましょう”と言われても、そう簡単にはいかない。男女間の特殊な関係の愛ならまだしも、見も知らない人や、何の関わりもない人に愛を……と言われても、何のことなのかさっぱり分からない。

 どちらかと言えば、愛は自分の行動範囲内にしか通じない気持ちで、小規模で発展性の弱い、土着的なもののようだ。しかし、その気持ちの裏には、大変な義務感と責任感があり、時にはその重圧に押しつぶされそうになることもある。

 愛は与える気持ちと、与えられる 感情があるが、神の保護を信ずる欧米思想では、どちらかと言えば、神に代って愛を与えることを信条としている。神の助けによって、自分が努力すれば極楽へ行けると信ずる東洋思想では、他人との融和を本分とするので、愛を与えられる気持が強い。

 日本の親が自分の子供を育むのは、他人から後ろ指を差されない社会人にすることを旨とし、社会的に強い人間にするためではない。

 だから、親が子を愛しているのではなく、神に代って優しくいたわり、保護しているのである。

 日本人は古来、おだやかな自然に培われた定住者の信頼感を頼りに、他人との融和による社会を営んできたので、英雄を必要としなかったし、神の強い保護を必要としなかった。どちらかと言えば、精神的な共同体意識を好み、優しさを理想としてきた。

3.優しさは文化的な平等欲

 優しさとは、素直でおとなしいことであり、大変社会的な意味が強く、献身的で平等意識に包まれている。

 恥らいの文化とも言われる日本文化は、女性的で情深いので、独占欲や動物的な闘争心をよしとしない。どちらかと言えば、精神的に飽和な社会を望むので、強烈な愛を好まないし、男女間の感情においても優しさが望まれる。だから、温情的で平和な社会に、分け隔てなく優しい心を持つことを信条とする。しかし、優しさにはそれはどの責任感も義務感もなく、感情的で刹那的な面がある。

 優しさは、愛のような土着性に乏しく、主義・思想・宗教・民族を越えて国際的に通用するし、特殊性がない。大変人間的で、他の動物にはあまり見られない感情であるが、没我的で、けなげな行為とこまやかな理性による心情である。だから、優しさは愛よりも理解されやすく、容易であるが、厳しさや大らかさに欠け、日和見的な情感に包まれがちだ。

 優しさの少ない社会は住み辛いが、多すぎると活力のない、耽美的な社会になり、やがて衰退への道を進む。反対に愛が強すぎると弱肉強食の社会になりがちである。

4.愛のない優しさは無責任

 “可愛い子には旅をさせよ”

 この諺の意味は、親の優しさよりも、強い愛の必要性を説いている。

 人間に男と女がいるように、長い人生の道程には山もあり、谷や川もあり、必ず陽と陰がある。親が子にその具体的事実を体験的に伝えるのが愛であり、子供の立場になって考えるのが優しさである。

 文明が発展し、文化が向上してくると、優しさの方が望まれるが、愛のない優しさは刹那的で無責任な行為になりがちである。人間の成長過程に愛のムチは必要だが、優しいムチはありえない。

 “愛のない社会は存在しえないが、優しさのない社会は存在しうる。愛は優しさを包むが、優しさは愛を包みきれない。優しさのない愛はあっても、愛のない優しさは眠れる獅子である”

 私たちは今、愛と優しさについてよく理解し、愛のない優しさに気をつけねばなるまい。

 日本の中年以上の苦しかった時代を知っている人々の多くは、自分の子供には、自分の孫には白分たちが体験したような、貧しく苦しかったことをさせたくないとの願いが大変強い。もちろんそうあるべきだ。しかし、人間の成長過程において、青少年時代に通過しなければならない、大事なことまでも混同してしまっている傾向もある。

 青少年時代には逞しい心身を培うため、たまには、非生産的・非能率的、あほらしい体験も必要。

 今日の豊かな日本を築いたのは、苦しかった時代を体験した活力ある人々で、豊かさに浸った若い人人ではない。しかし、やがて若い日本人が中年以上になる。

 いつの時代にも人間の知恵は伝承される。何故日本人がこれだけの豊かさを築けたのか、その理由をよく考え、よかった面を大いに伝えるべきだ。それが若い日本人への大いなる愛であり、黙して語らないで、体験の乏しい人々に同調してしまうのは優しさだけのような気がする。

     機関誌「野外活動(現:野外文化)」第49号(昭和55年12月15日)巻頭より