青少年教育と政治観(昭和63年)

青少年教育と政治観

 新しい日本の政治は、繁栄のための経済活動を中心とするものではなく、社会の安定と継続をも重要視すべきである。さもなければ、社会の内部衰退による墓穴を掘ることになる。

1.見本のない青少年教育

 日本史上、今日ほど青少年教育が困難な時代はないのではあるまいか………。

 青少年教育は、私的側面と公的側面の二面性がある。私的側面の教育は、知識や技能、情報、体力などを、主に学校が中心にもなっている。公的側面の教育は、風習や言葉、衛生、心身の鍛練や素養などを、家庭や地域社会によって体得させてきた。

 明治以後に作られた日本の学校は全人教育を目的としたので、私的側面のみならず公的側面の教育をも導入していた。その成果か今日の発展した日本の礎となっている。ところが、戦後の民主教育は、公的側面の教育が薄れ、家庭や社会教育の機能をも衰退してしまった。そればかりか、自然と共に生きる教育まで薄れている。

 文部省検定済教科書の小学一年生の「こくご」には季節感かあまりない。

 私たちは「さいた、さいた、さくらがさいた」であったが、今は「はしれ、はしれ、たかいたかい、みえるみえる」で始まり、「あつまれ、あつまれ、さかなたち」「さよなら、さよなら、またあした」と続き、いずれも汽車の絵がある。

 検定にかかわった人によると、その理由を次のように説明してくれた。

 「南北に長い日本列島の季節は各地によって多少違っている。だから、桜が咲くのは四月の入学時だけではなく3月や5月にも咲くので、大変なお叱りを受ける。各地の主張を聞き入れると季節感のない内容になってしまう」

 私的側面の教育を大事にし、地域性を尊重する今日では、日本の平均的な季節感を教育してはいけないのだそうだ。だから、日本人が歳時記による季節感を共有しなくなっている。そのため、入学が9月でもよいということになるのだろう。

 社会の価値観が多様化し、人間性や社会性、そして季節感にまで見本がなくなると、平均的日本人としての青少年教育は大変困難になる。

2.外交と教育

 奥野国土庁長官が、日中関係に関する発言によって、5月13日に辞任させられた。日本人の多くは、「またか!?」と思われたに違いない。それは発言批判ではなく、政府の外交の本質回避の姿勢による不手際と、内政までも外国に振り回されていることの驚きからである。

 奥野長官は、4月22日の記者会見で、「中国に配慮するのもやむを得ないが、鄧小平さんの言動に日本国民全体か振り回されるのは情けない」と、内政問題として発言しただけである。それがいつの間にか外交問題にまでエスカレートしてしまった。

 地球上に、内戦や他国との戦争のなかった国家はない。侵略する、されるにかかわらず、戦争が愚かな行為で、残酷を極めることは誰もが知っているので、万民か戦争に反対する。しかし、歴史上の戦争は多くの物を破壊したと同時に、多くの物を造った2面性をもっている。また、立場が異なると善悪の評価や表現も異なる。

 日本は、今世紀中葉まで、他民族の侵入を許した記録をもっていない。そのせいか、日本人は理想論や個人的感情、戦争アレルギー現象などによる、道義上の姿勢と外交姿勢を混同しがちで、まるで内政感覚で外交をしようとしている。

 いつの時代も、外交には国益がつきまとう。だから相手の非を強く攻め、自分たちの正当性を、時間をかけて分かりやすく説明していく心構えがなくてはならない。外交は決して感情によってなされるものではなく、中国の鄧小平さんが好んでやるといわれるトランプのような、冷静なテクニックで行なうものである。

 ところが日本では、外交にも党利党略が前面に出てくるし、報道機関は独自の判断を表に出し、知識者は道義的になって、諸問題が国益とはかかわりないかのように報道される。その立場や価値基準のはっきりしない、自己否定的な報道を日本の青少年はいつも目にし、耳にしている。

 青少年教育の大半は、日常の社会現象によってなされる。特にマスコミニュケーションの影響力は大きい。だから、外交問題によって、日本の「負の遺産」を主張しすぎると、道義的には理解できても、社会の後継者たちには、国民としての自覚と誇りを失わせることになる。

 奥野発言を外交問題にしてしまった政府の責任はもとより、野党や報道関係者も、中国に外交の切札をまたも与えたばかりでなく、日本の青少年によい影響を与えなかったことも、少しは考えるべきである。

3.政治の基本三要素

 日本には権力的な「政治」を嫌う人が多い。それは、多民族、多文化社会でなく、単一民族的な定住した農耕民文化を基盤とした、統合された信頼社会の権威を、重んずるせいなのかもしれない。しかし、社会のすべてを決定する政治は大変重要である。

 ところで、「政治」とはいかなる意味なのか、「政治」について辞典を調べてみると次のように説明してある。

 「政治とは大和ことばのまつりごとのことである。まつりごとは、権力の行使、権力の獲得維持にかかわる現象であり、主権者が領土、人民を統治することである。つまり『政治』とは、住みやすい社会を作るために、当局者か立法、司法、行政の諸機関を通じて、国民の生活を指導したり、取り締まったりすることなのである。そして政治家とは、自分の政見を直接、政策の上に反映させることのできる立場にある人なのである。このような政治の3要素は、住みよい社会の安定と継続と繁栄なのである」。

 社会の安定は、家庭、娯楽、国際交流、文化、環境、教育などの諸問題を解決し、良識ある社会人を多くすることによって維持されるものとされている。そして社会の継続は、青少年教育そのものであり、健全な後継者を育むことによってなされることである。3つ目の繁栄は、産業、情報、技能、開発などによる経済活動によって物資や流通を確保し、安定した生活ができるようにすることなのである。

 政治家は、この3要素を発展、充実させるための政策を立案し、実行するために政治活動をする。

 なんと言っても、社会の安定と継続は青少年の健全育成による所が大きいので、政治の2/3は青少年教育にあるといっても過言ではない。

4.青少年教育の重要性

 政治に大事なことは人づくりと経済活動である。金かなければできないことはあるが、金がなくても人さえいればできることも多い。やはり金権政治をいつまでも続けるのではなく、人づくりを優先する政治も大変重要である。そして国民は、社会の中心が政治であることを知ることが必要。

 戦後の日本は、貧しかったせいか、人づくりよりも金を得ること、心よりも物を重んじる傾向が強かった。昭和40年代からやっと物が豊かになったが、未だに金と物の時代が続き、大きな社会問題となっている。これは政治が貧困なるが故だともいえる。

 今日の青少年は、人間性や社会性に乏しく、活力や想像力が不足しがちだといわれているが、その大きな要因は、社会の急激な変化や視聴覚機器、電子頭脳などの発達によって関接情報と疑似体験が多くなり、幼少年時代に野外文化活動をする機会と場か少なくなって、原体験をもつことができなくなったことによる。これもまさしく、主体性を欠いたこれまでの政治の貧困によるものである。

 これからの青少年教育は、より健康で活力や想像力があり、人間性や社会性の豊かな社会人を育むための教育活動が望まれる。そのためには、より多くの少年期の子どもたちに、野外文化活動をする機会と場を与える教育政策が必要である。

 これからの新しい日本の政治は、繁栄のための経済活動を中心とするものではなく、社会の安定と継続を重要視することが重要。さもなければ、社会の内部衰退による墓穴を掘ることになる。

 21世紀の社会を考えるに、人づくりが重要な課題になるので、これまでのように物や金に負う台所直結型の政治家だけでなく、青少年教育の政見のある人が、より多く国政の場に参加することが必要。 

            機関誌「野外文化」第94号(昭和63年6月20日)巻頭より