子どもたちに今何が必要か(昭和60年)

子どもたちに今何が必要か

いつの時代にも子どもたちの特徴を知り、社会的、文化的にどのようなことが欠けており、どのような人間性や社会性が望ましいかを考え、そのことを子ども自らに気づかせる生活労働の体験が必要なのである。

1.巣ごもりは非社会的現象

 豊かで高等な文明社会で、しかも教育の充実した日本に、子どものいじめや暴力が多発し、室内にこもる巣ごもり現象かあるという世論がかまびすしい。しかし、子どもの世界に口論や取っ組合いはつきものである。といっても、困ったことは、今日のいじめや暴力には自殺があり、巨額の賠償が要求され、人間的悪のレッテルが貼られる社会問題となることである。

 古代から幼少年時代のいじめや暴力は日常的なことであり、社会問題になるようなことはごくまれであった。それは。異年齢集団によるガキ大将のような、監視する立場の人が身近にいたり見覚えたり、体験的に程度を知っていたり、相談相手がいたので、現代っ子ほどのねちっこさや、いやらしさは少なかったからでもある。いじめることも、いじめられることも、社会人になるための通過儀礼的なことで、たいてい両方を体験しながら成長するものだった。しかし、高等な文明社会の特徴ともいえる、巣ごもりのような非社会的な現象はあまりなかったことである。

 今日のいじめや暴力には程度をわきまえない危険はあるが、この巣ごもり現象ほど社会問題にするようなことではない。子どもの多くが、テレビ、マイコンファミコン、漫画などを相手に部屋の中にこもっているといわれている。そして、家族との会話か少なく、地域社会の子どもの遊びもなく、仲間のいない孤独な時間を長くもつという。このような幼少年時代を過した人間は、いかに知識が豊かであっても、社会人としての共通性や思いやりの心を育むことが大変困難で、自然とのかかわりも少なく、長い人生を楽しく健康的には暮せない。

2.戦後教育の白と黒

 私は昭和22年4月、戦後民主教育の初年度に小学校へ入学した。それ以来すでに38年が経過した。私と同年輩の多くの日本人が、今の小中高校生の父や母となっている。私たちは、戦後の日本と共に成長し、民主教育の充実と共に人間性を培ってきた。そしてその成果が、今は私たちの子どもを通じて問われている。いわゆる、戦後の理想教育の落し子たちが産んだ卵からどんな鳥が育つのか、その過程の諸現象が今日の青少年問題なのである。

 幼少年時代の教育の成果は、早くて15年、遅いと30年後でないと知ることはできない。そのため、いつの世にも人をつくる国の教育政策は、長期的な展望をもとに慎重を期することが望まれる。しかし、戦後の教育政策は。日本に主権のない社会状態で短期間につくられ、今もそのまま続けられている。その良さ悪さを、今日の子どもたちがいろいろな形で社会に問いかけている。

 今日までの教育の主たる目的は、知識と技術の習得であり、社会性とか人間性はなおざりがちであったような気がする。いわゆる。生きるための糧を得る手段や方法を学び、道のない荒野を自由に進むことだった。

 このような教育を受けて育った親たちが、今自分の子どもに社会性や人間性について教えようとしているのだが、豊かな経験や知恵もなく、子どもの自己中心的な主張と豊かな知識にふりまわされている。

 人の子の親になって気づく人はまだしもよいが、子どもがそのまま親になったような母親や父親が多く、社会人にとって重要な礼儀やあいさつ、言葉や風習など、日常の生活態度すら教えられないことがある。そして、そのことをすべて他人のせいにし、まるで評論家のごとき親がいる。その親たちの子が、巣ごもりをしたり、悪質ないじめや暴力をふるったりしているのではないだろうか………。

 いかなる民族のいかなる社会でも、教育の基本は社会人として共通性のある後継者を育むことである。それゆえ、幼少年期の教育は、地域社会にかかわりの深い社会生活の基本的な諸事について教えることが望まれる。

 幼少年期に地域社会との結びつきをもたなかった社会人は、心のふるさとを知らない精神的放浪者にならざるをえない。日本人の多くが、精神的放浪者になりかけているような社会的現象が、今日の社会的特徴の一つであるともいえるが、それも戦後民主教育のなせることである。

3.まずは生活労働の体験から 

現代っ子の特徴は、自己中心的で受身な上に、物事に飽きっぽく、結果主義であり、創造性や工夫に欠け、実践力が乏しいといわれている。

 子どもたちは躾や生活習慣を身につけてはいないが、親の知らない知識や技術が豊かで、なかなかの理論家である。だから、非科学的なことや非論理的なことには納得しないので、人間性や社会性を言葉や文字で説明してもあまり効果的ではない。

 人間の活力や実践力は、多くの行動実例をもつことによって培われる。そして、行動する能力は、想像力や体験的判断力による経過認識、その他欲望などの集大成されたものなので、決して机上論的知識のみによって培われるものではない。

 現代っ子に欠けている「生きる力」を培い、活力や創造力を育む最も良い方法は、生活のための労働である。いかに現代っ子でも、生きるための生活労働は具体的で納得しやすい事実なので、飲むため、食べるため、住むため、寝るため、着るため、排便するためなど、生きるに必要な労働を、個人的又は共同で体験させることが効果的な指導である。

 私は。このことを実践するために、本年(昭和60年)の夏、豊後水道に浮かぶ無人島で、70人の子どもたちと共に9日間生活した。小学5年生から高校3年までの異年齢集団の子どもたちは、はじめ大自然にも、共同生活にも馴染めなかった。しかし、5日目頃から、人間本来の順応性や生活力にめざめ、自然の中で生きる共同作業になれ、異年齢集団の社会を上手に営むようになった。すると、あいさつや情報交換が活発になり、会話や笑いのある共同作業が自然に行なわれるようになった。また、年長者が年少者をかばい、年少者は年長者に従い、それぞれ得意とすることを率先してやるようにもなって、子どもたちの表情が蘇った野性児のように明るくなった。

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 このような生活労働は、家庭でも、地域社会や学校でも簡単にできることであり、子どもにとっては最も身近に社会性を認識する機会である。そのことを、親や教師、青少年の指導者が忘れがちになっているのではないだろうか。

4.プログラムよりねらいを

 今日の青少年教育者には評論家が多く、学校教育や社会教育でも、ねらいをはっきりせず、手段や方法としてのプログラムづくりに奔走する傾向が目立っている。

 社会の後継者たる青少年を健全育成するのは、プログラムが重要なのではなく、社会人として心身が逞しく育って欲しいというねらいが大事で、そのために何をすればよいかを考えるべきである。

 例えば、自然との具体的な対面、植物名の必要性の認識、植物と生活文化のかかわり、植物の特徴、美的情操の陶冶、自然との会話など、人間と植物とのかかわりを知ってもらうために、私は「グリーンアドベンチャー」という植物観察の方法を考案した。

 子どもたちの健全育成のねらいは日本全国、いや人類すべてに共通しているのだが、その方法であるプログラムは、自然環境や社会環境によって違ってくるので、北海道と関東と九州・沖繩ではおのずと違うし、諸外国ではなおのこと違ってしかるべきである。だから、青少年教育のねらいも認識せずに、他国や他地域のプログラムをまねて指導するようでは、単なる娯楽でしかなく、効果的に活動しているとはいえない。

 まずは今日の子どもたちの特徴を知り、社会的、文化的にどのようなことが欠けており、どのような人間性や社会性が望ましいかを考え、そのことを子ども自らに気づかせる生活労働の体験をもたせることが必要なのである。

    機関誌「野外活動(現:野外文化)」第79号(昭和60年12月20日)巻頭より