教育の手段を目的とするなかれ(平成12年)
教育の手段を目的とするなかれ
1.教育の目的と手段
私たち人間は、個人であると同時に社会人であることが必要であるが、日本の民主教育は個人尊重の理念が強すぎて、社会人の義務と責任が軽んじられてきた。そのため、社会人としての基本的能力(野外文化)を身につけないまま成人し、一人前の社会人になろうとしない利己主義的な人が多くなった。
そのこともあって、教育改革の必要性が叫ばれて久しいのだが、公教育の目的は、いつの時代も1人前の社会人である後継者を育成する「人づくり」である。その目的を達成する手段として学校教育や社会教育、家庭教育等がある。教職員が、算数・国語・理科・社会等の教科書を使って行う学校教育の制度や内容、方法等は、全て人づくりの手段なのである。
2.成長に必要な精神作用
人づくりである青少年教育にとって最も大切なことは、子供たちが見覚えたり、見習ったりすることのできる機会と場を作ってやることである。間接情報や理屈で知識や技能を身につけさせることも必要だが、現場で他と共に行動し、考え、感じることを欠いては、社会人としての十分な成長が望めない。青少年が、より健康で、より良い1人前の社会人に成長するためには、2人以上で共に行動することによって、次のような精神作用の変化を経験することが大切である。まずは、下図のように好奇心を持たせることから始まる。
野外で、異年齢の子どもたちに遊びや自然体験、かち歩き体験、野外生活体験(キャンプ)等をさせるのは、青少年教育の手段であって目的ではない。その目的は、1人前の社会人に成長するのに必要な、このような精神作用をおこさせることである。
3.社会人としての共通認識
社会の後継者を育成する青少年教育の目的は、社会人としての共通性を身につけさせることである。
私たち日本人にとって最も大切なことは、日本語を良く理解し、風習や道徳心、信頼、善悪等を共通認識できることである。
そこで、小・中学校の公教育で最も大切なことは、日本語の読み、書き、会話か十分にできるようにさせることだ。今、関心を集めている英語は、日本人が国際的経済活動をする手段として必要なだけで、日常的に大切な言葉ではない。だから専門的には希望者が学べばよい。
もし、日本に2つの公用語が併用されるようになれば、必ず文化戦争が起こり、教育目的が薄れ、手段が横行して社会は不安定状態になる。
私は、若い人たちと行動を共にする上にとって、重要だと思われる日本語を次のように定義し、共通認識を深めている。
①仕事とは、社会的に有用な付加価値をつくり出し、高めること。
②叱るとは、過ちに気づかせ、然るべき方向に向かわせるように理性的感情を移入すること。
③誉めるとは、相手を認め、更に自信と誇りをもって、継続・発展させるように称えること。
④計画とは、自分及び組織の目的を間違いなく実行するために、誰が、いつ、どこで、何をどのようにするかを決めること。
⑤納得とは、物事をよく理解し、積極的に判断すること。
⑥勇気とは、細心の注意を払って大胆に行動する心意気。
⑦義務とは、社会の中で当然やらなければならないとされていること。
⑧責任感とは、自分がしなければならないことを実行しようとする強い心構え。
⑨使命感とは、与えられた任務を積極的にやり遂げようとする心構え。
⑩指導とは、物事を成功裡に遂行できるように指示を出し、その結果を確認してよリ高い目標へ向かわせること。
4.総合学習は教育の手段である
義務教育の目的は社会の後継者づくりである。学校教育の制度や内容、方法等はその目的をより効果的に達成するための手段である。今話題になっている総合学習、自然体験学習は、これまでの人類が経験したことのない科学的文明社会に生まれ育つ子どもたちを、より良い社会人に育成するために考案された、新しい方法や内容としての教育の手段である。
教育の手段は、時代と共に変化するが、目的は、社会的人間の本質が変わらない限り、変えるべきではないし、変わらないであろう。
人類にとって、これからの教育は大きな課題ではあるが、公教育の大目的である『読み』『書き』『算盤』の基本を碓実に実践さえしていれば、よりよい社会人を育成する目的は達成できるので、総合学習の方法や内容などの手段に囚われて不安がることはない。
機関誌「野外文化」第165号(平成12年4月20日)巻頭より