同世代の親たちへ(昭和58年)

同世代の親たちへ

 表層文化と自由という名の自己主義に溺れかけた日本人の社会集団は、義務とか責任を敬遠しがちだが、それでは社会の後継者を培うことは難しく、活力が衰退しがちになる。

1.親は子のなりあがり

 昭和58年4月8日の東京は。桜が満開に咲いていた。やおらかな陽差しに咲きほこる花を見あげていると、さわやかな春風が心の中に吹きこんで、胸が風船のように膨らんだ。

 昭和22年4月初めにも、桜の花は同じように咲いていた。終戦間もない、民主教育初年度に入学した私は、すでに42歳の父親である。長いようで、大変短い年月であったように思われる。

 今年もまた小学1年生が入学した。36年前の私たちと同じ日本の子供たちであり、皆はりきっている。しかし、やがて、それぞれが社会の諸現象に感化され、異なった道を進んでいく。

 今も昔も、いつの時代にも青少年の非行化は絶えることがない。必ず不良と呼称されるグループがいる。いる方が反面教師になって都合のよい場合がある。もし、全員が善良なる少年少女であったならば……。

 私たちは、かつて人類が経験したことのない高等な文明社会の中にいる。異常に発展したマスコミニュケーションは、世の中の諸現象を拡大し、顕微鏡的情報を洪水のように流している。特に電波は、子供たちを暴力的に刺激し、大人への疑似化現象を早急に誘発して

いる。

 30年前の私も、たえず周囲の大人を模倣した。今の子供たちとて少しも変ってはいない。違っている点は、電波を通じての間接的な模倣がなかったことである。今の子供たちは、広範囲の間接的な情報による疑似化で、無生物化した感覚的な現象に溺れがちになっている。

 子供は、いつの時代にも模倣によって大人になる。30数年後には、この子供たちが必ず今の私たちと同じ年齢の親になる。

2.親たちが忘れていること 

 今日の青少年は、マスコミニュケーションを通して、物事を間接的に認識し、学校教育の充実によって広範囲の知識を習得している。しかし、理論的に学んだ知識はやがて忘れられ、実社会ではあまり役だたない。

 子を育てる親は社会を具体的に生き、子は理想と希望の抽象的な自由の世界に生きるものであることは、文明がいかに進歩しても変化しない。残念なことに、親はそのことを具体的に知っているが、子は概念的にも知りはしない。親が、もしも自分の青少年時代を忘れてしまっては、親子の理解はありえないだろう。子がいかように知識を深めても、40歳くらいにならないと、親を理解し難い。

 豊かな知識を身につけている今日の青少年が、具体的な実体験の裏づけをもっていると思うのは錯覚である。

 「あなたを死ぬほど愛しています」

 十数歳の子供がいったとしても、言葉の本当の意味を体験的に知っているわけではない。

 大人の生活の知恵は、長い年月の実体験によって習得されるものである。子供の表層的な知識よりも、親の人生経験による直感の方が、判断にあやまりのないことが多い。

 青少年にとっての学習は、社会人としてよりよく生きるために必要な手段であるが、人生の目的ではない。しかし、子供たちはそれに気づかないで、あたかも目的であるかのごとく知識を吸収する。いつの時代にも。親はその子供の知識欲と量に悩まされるが、子供よりはるかに長く生きてきた実体験に権威と自信を持つことを忘れてはならない。

3.親が子へ伝えること 

 日本人は、生まれながらにして日本語を話し、おじぎをし、はしを上手に使うことができるわけではない。それは、日本人として育つ社会環境の中で教えられ、学習することによって覚えたものである。

 社会生活の中で培われた文化には、表層と基層をなす2種類がある。表層文化は、生活にうるおいを与えるものであり、基層文化はなくてはならない基本的なもので、衣・食・住や風俗習慣、言葉などである。

 表層文化は、音楽、美術、演劇、文学などで、他民族にも共通性のあるものだが、基層文化は、自然環境によって育まれた地域性が強く、共通性の少ないものである。しかし、社会集団では、基層文化を共有しない限り、その一員になることは困難である。    

 有史以来、親や地域社会が子供たちに教えたことは、基層文化であった。祭や年中行事、農林水産業の共同作業など、異年齢集団のありとあらゆる機会と場を通して、子供たちはそれを見覚えてきた。それが教育の基本であったが、学校という知識教育の専門機関が設立されて以来、多くの親や大人たちはなおざりがちになった。特に、今日のように知識教育が充実してくると、教育の目的が受験用と錯覚されやすい。また、マスコミニュケーションによる表層文化の大宣伝と拡大解釈によって、基層文化の重要性を忘れがちになる。

 今日の青少年は表層文化的な能力に秀れているが、日本の風習を理解する能力は劣っている。ということは、日本語に付随した生活文化の伝承がうまくなされていなかったからだ。

 私たちが学んだ、戦後の民主教育は、基層文化を伝える機会と場が欠落していた。親となった私たちの世代に、社会の基本的な部分の認識が弱いのは、社会人としての自覚と、親としての自信を培う深層心理にそれが大きな影響を与えている。

 親が子へ伝えなければならないもの……、それは大地に足をつけて自信をもって生きる知恵である基層文化である。私たち同世代の親には、今すぐにでも、その一部である生活文化の伝承や体力、忍耐力、活力を培う機会と場を、青少年に与えるよう努力することが望まれる。

4.40歳から社会の責任者

 社会集団の中で、責任能力のない子供は、親又は責任能力のあるものに保護されている。ちなみに日本では、責任年齢を14歳としている。そして、社会の後継者となるに必要な基層文化を身につけるための大切な学習期間を終了し、膨大な数の行動様式を習得したと思われる成人年齢がある。今日の日本の法律では20歳であるが、実際的に心身ともに成人するのは25歳だと思われる。

 25歳以上は独立し、自分の家族を育む。しかし、物質的、精神的に余裕のないのが普通であるが、やがて子が成長してゆくにしたがって社会集団の情況が気になり始める。そして、社会の後継者に気をくばり、保護者としての自覚が芽生えるようになる。

 人間は、社会集団の中で、40歳前後を境に、社会の単なる構成員から後継者育成の意識が芽生え始める。その自覚は、基層文化の必要性を感じた時に始まるものと思われる。

 どんなに文明が発展しても、40歳以上の者が、社会の責任者であり、保護者である。そして、後継者を培う義務を忘れては、社会集団は成立しない。

 表層文化と自由という名の自己主義に溺れかけた日本人の社会集団は、義務とか責任を敬遠しがちだが、それでは社会の後継者を培うことは難しく、活力が衰退しがちになる。

 津波のように押しよせる感性的な表層文化の社会現象に溺れたとしても、社会を営むに欠くことのできない基層文化が、なんであるかを伝える義務があることを、親たちが忘れないことだ。

 私たち同世代の親は、これからまだ30年も40年も、この日本の大地に生きてゆかなければならないのだから……。

     機関誌「野外活動(現:野外文化)」第63号(昭和58年4月20日)巻頭より