遅れて来た民族(昭和57年)

遅れて来た民族

 世界中から遅れて来た民族と思われている日本人の真価は、豊かな現状を平和的により長く維持することによって認められる。

 

1.発展するのは何故か

 今や日本の存在は世界の注目の的になっている。しかし。その本質について知っている日本人は少ないのではないだろうか。と同時に、諸外国が発展しにくい要因について考える日本人も少ないように思える。

 どこの国を訪れても、まず最初に質問される。

 「日本が第二次大戦後、急に発展したのは何故ですか」

 世界の諸民族は、日本が、非文明社会から急に今日の高等な文明社会に発展したものと錯覚している。そのため、自国と比べて考えても、その疑問を解く糸口を失って、大変不可解な神秘に包まれた不思議な国のように思われている。彼らは、日本人とその社会を理解する知識を持ち合せていない場合が多い。

 日本人が、世界の諸国を自分たちの価値観で判断するように、諸民族も、現在生活している環境のもとに日本を認識しようとする。ましてや、日本よりも教育の充実が欠け、他を優先して考えることの少ない思考方法の持ち主たちであるので、日本が発展すれば一層疑問が強くなり、非難が集中しやすい。特に、人類史の中では、重商主義に走った民族集団が、他民族から好感を持たれなかった事実を、我々も“歴史学”なる学問を通じて周知している。

 

2.外交をしない日本人

 日本以外の民族集団は、日本が発展すればするほど“何故”“どうして”という疑問を声高に発し、自分たちの“非”を認めることはない。

「外交とは他国の“非”を攻め、自国の“利”を得るために話し合うことである」

 私の会った諸外国の人々はこう教えてくれた。これは、日本以外の諸国では個人的にもいえることである。

 現在、年間300万人もの日本人が外国を訪れている。大半が団体旅行であり、その6・70%は中年以上である。彼らは大変礼儀正しく、真面目で、画一的であるが、外国の文化を理解し難く、日本の風習についてすら認識が浅い。

 「すみません……」

 「どうもありがとうございました」

 彼らの多くは、何か小さな問題が起きても、まず、これらの言葉を口にし、平身低頭するかのごとく、自己否定的な表現をする。日本人ならあたりまえのことであるが、諸外国の人々には、それがなかなか理解され難い。

 大陸のどの国家でも、たいてい多民族、多宗教であり、政治権力は、いずれかの民族や宗教と結びついている。政治家は、自分の所属している民族や宗教・思想を主張し、発展させることが役目であり、国家全体の発展に尽す情熱は大変弱いのが普通である。だから、何をなすにも袖の下の行為が要求されがちになる。民衆はそれを知ってもあまり怒らないし、あきらめがちであるが、日本人の風習は、これらとは全く逆の発想をしがちである。

「日本人は画一的で、団体行動を好む民族のようだ」

 諸外国の人々が日本人を評する場合、よく使う表現である。しかし、彼らはそれが絶対悪だとは思っていない。彼らも、自分たちの所属している小社会での言行は、日本人的である。ただ、国家的大規模な社会での画一性が、彼らには信じられないのである。だから自己と、自分の小社会に関する主張を繰返しがちで“小道を捨てて大道につく”ことが、何ものの力によっても容易ではない。そのため“日本のために”とか“会社のために”という自己犠牲的で、“すみません”とすぐに頭を下げる謙虚な日本人が、理解できないというのである。

 

3.単一性と活力

 地球上の諸民族を探訪すると、一民族が一国家をなしている例は大変少ない。しかも、1億もの民族のいる文明発展国は日本だけである。民族といった場合は言葉と風俗習慣を異にしない社会ということが大前提になるので、日本は、自然環境的には島国なので単一民族国家を建てやすい条件下にあり、大変恵まれていた。

 先進国とされている欧州諸国ですら、今も内部に、民族と宗教戦争の火種が消えてはいない。だから、国民の大半の意志によって諸事が終決されることは少ない。それは、大変民主的で、自由で、開放的だが、大社会としての集約的な活力に欠けやすい。そのため、全体的な改革と発展は遅々として進み難い。ましてや、アジア諸国のような発展途上国多民族国家では、まず、大社会の画期的な発展は望みようもない。もしあり得るとすれば、それは他国民の侵略であり、革命でしかあるまい。しかし、文化は自然環境のなさしめた、人間への贈物なので、やがて修正を余儀なくされる。東南アジア諸国の現状が、その事実を一目瞭然にしてくれる。

 人間は、自分が所属していると自認する社会には献身的であり得るが、さもなければ、大変自己中心的である。アメリカ人が国際的で、どこにでも口や手を出すのは、世界は自分たちの傘下にあるという意識が強いからであって、決して献身的なのではない。それどころか、多民族・多宗教・多文化の見本的な国家で、大変自己中心的な発想をする人が多く、自己保全のために何でも条文化している。そのため、国内の高等な文明社会では、不信と不調和と退廃の嵐が吹き荒れ、経済的不況と、末期的な社会現象に見舞われている。彼らが最も望んでやまないのは、信頼と調和と活力のある社会である。

 今や、日本の単一性とその活力は、世界の人々にとって信じられない事実であり、諸民族の理想の楽土として、羨望の的になっている。しかし、諸外国の人々が日本に望むことは、彼らと同じような社会になることであり、自分たちより優位になることではない。

 

⒋.遅れてきた民族

 日本人の多くは、欧米諸国以外では、日本が最も発展し、最も進歩し、最も豊かで秀れていると思っている。そして、東南アジア諸国発展途上国とは本質的に異なっているという自負心を持っている。ところが、世界のどんな民族も、自分たちのことを他に勝っていると思っているのである。特に、日本に最も関わりのある東南アジアや近隣諸国の人々がそうである。

 本年3月下旬にタイ国を訪れた時。或る日本人がいった。

 「日本人であることが、なんとなく情けなくなってきます」

 彼は、日本から技術指導に行ったのであるが、タイの人々は、日本人は我々の弟であり、遅れてやってきた民族であるとしか思っていないというのである。自分たちは西洋化も日本より早かったというし、今、日本はちょっと文明的に進んでいるだけだというのだそうだ。これは、日本人のタイ国に対するイメージと重なる。いや、中国でも、韓国、フィリピン、インドネシアでも、彼らは日本を兄貴分だとか、指導的な立場だとは決して思っていない。それどころか、自分たちより遅れて文明国になったと思っている。その彼らが、不思議なことに、欧米人には頭が上がらないし、いまだに下位的立場に甘んじている。彼らが日本を知ったのは、日本人が後悔してやまない太平洋戦争時においてであるが、欧米諸国は、その100年以上も前から知っているし、武力によって植民地化されたとはいえ、いろいろなことを教え、与えてくれたと思っており、今もその影響力が残像のごとく続いている。

 欧米人は、日本のことを自分たちの教え子であり、コピーであり、はるかに遅れてきた後輩ぐらいにしか思っていない。その日本が世界経済の動向の鍵を握ったのであるから、世界中の人々が、優越感による妬み半分の外交をしかけても不思議はない。

 世界中から遅れてきた民族と思われている日本人の真価は、現状を平和的により長く維持することによって認められるであろう。さもなくば、子々孫々に至るまで遅れてきた民族でしかあるまい。

      機関誌「野外活動(現:野外文化)」第57号(昭和57年4月23日)巻頭より