島国でなくなった日本(昭和59年)

島国でなくなった日本

 今日の日本は、すでに海上に浮いた島国ではなく、地球的規模でどこにでも通じる大陸の中の一国と化している。そのことを意識せずして国際化社会の理解は困難である。

1.日本の立地条件

 日本ほど自然の恵みの豊かな地域は、地球上をくまなく歩いてもそれほど多くはない。南北に長い列島国日本は、海岸線が長く、山と海の幸を利用しやすい地域が多い。なにより、自然環境が農耕に適しているので、子々孫々にいたるまで定住して村を営むことが可能であった。

 大陸に住む人々の多くは、自然を追いかけ、自然と戦いながら生活する場合が多いが、日本に住む人々は、自ら移動しなくても気象変化や海流によって自然環境が変化し、四季が訪れるので、少々辛くても待っていれば恵みがあることを信じる生活文化を培ってきた。

 日本は周囲が海であるが故に、他民族の大規模な侵入が容易でなはかった。過去におけるいかなる移入者も、日本の自然環境に順応し、先住の民の生活文化を大きく変化させることはなかったようである。

 日本人は他民族の侵略によって大きな文化的変化、すなわち被支配的な社会状況を知らないまま今世紀まで稲作農耕文化を崇拝してきた。多分、このような民族的・文化的に変化の少ない国は他に例がないであろう。ということは、人々が平和に安心して暮すに必要な自然的、社会的条件に恵まれていた。

 

2.吸収型文化の伝統

 有史以来、日本列島に移入した人々は、恵まれた立地条件によって、独自の文化を形成する必要性は弱かった。大陸では他民族との戦いが多く、社会存続の条件が厳しいので、自分たちの社会の継続に大変な努力と工夫と犠牲を払い、特徴のある自発的文化を持つ必要があった。しかし、日本列島のような立地条件に住みついた人々は、温和で防衛意識が弱く、自然と共にのんびり暮していたのにちがいない。そのため、他からの移入者のもたらす文化的刺激に喜び、文明の利器に驚いて模倣し、たえず外部からの影響によって変化する吸収型文化の社会性が普及した。

 日本列島には南の方からまず稲作文化が伝わり、朝鮮半島から仏教文化、中国大陸から漢字文化、その他いろいろな文化・文明が次々に伝わってきた。人々は、それを吸収して日本列島にふさわしい文化に仕上げ、大陸の人々のように簡単に捨て去ることをせず、いつまでも残して改善し、日本独自の複合文化を形成する風習になじんだ。そのため、独自性は弱いが、他の文化や文明に大変寛容で進取的である。

 明治維新以来、東洋の複合文化を形成した日本列島に、西洋文化・文明が洪水のごとく流入されたが、日本人はたいして抵抗することなく受け入れた。貪欲なほどに西欧のすべてを吸収した日本は、他のアジア諸国にはみられない発展と近代化をなしとげた。

 長い日本の歴史の中で、たえず他を見習う進取的な風習は、発展的な吸収型文化を形成する要因となり、工夫と努力の価値観を大衆文化とすることができた。その社会的価値観が、西欧に追いつけ追いこせの富国強兵という、有史以来初めての自発的な行為となり、日本列島の外に向かって爆発することになる。

 

3.初めての民族戦争と敗戦

 人類の文化・文明は戦いの成果といっても過言でないほど、戦争は有史以来続いている。大陸に住む人々は、安心して住める大地と信頼できる社会を切望するのだが、今も楽園に住める人々は少ない。彼らは、戦いのために文化を創り、文明を発展させ、他民族との戦いに慣れているので、自分たちの過去を否定するようなことはせず、外交的に有利な条件で、どのような終戦にするかをよく知っているし、交渉が大変上手である。大陸では自分たちを否定すれば、社会の存続ができなくなる。

 日本は今世紀になって、他民族の主権を侵す行為と、他民族の侵入を許す民族戦争を初めて体験した。長い間の吸収型文化の蓄積が欧米文化の刺激を受けて、ついに自発的・発散型文化へと変化し、国家主義の拡大へと走った。

 初めての民族戦争は、外交のための戦いではなく、純粋培養的感情の発散と、主権拡大の盲信によるもので、国民の基本的総意は得られていなかった。結果的にはアメリカの物量作戦に惨敗した。それは外交的な敗戦ではなく、民族戦争の経験のない人たちにとって、民族の基本的理念をも否定しかねない懺悔的な敗北であった。

 かつて、民族としての基本的理念を意識することの必要性もなかった日本人は、日本独自の自発的文化を形成する努力や犠牲が少なかったので、基本的な民族的自信を持ち合わせていなかったと思われる。そのため、一度の敗戦によって、一時的にではあるが日本の過去が否定されがちで、社会的責任と義務すら忘れがちになった人人が多かった。そして、伝統的な吸収型文化の習性が再び強く芽生え、戦勝国アメリカのすべてを模倣し、アメリカ化に抵抗することも少なかった。敗戦以来、日本がアメリカ合衆国日本州になるかのごとくふるまい、30年もしないうちにアメリカ型日本国家が形成された。日本の伝統である外来文化を気軽く取り入れる風習は、20世紀後半に自由と繁栄の理想の花を咲かせ、その香りを今や全世界に漂わせている。

 

4.大陸的国際化の中での知恵

 今日の日本は、すでに海上に浮いた島国ではなく、地球的規模でどこにでも通じる大陸の中の一国と化している。そのことを意識せずして国際化社会の理解は困難である。

 自然的立地条件は今も昔と変りないが、近代諸文明の利器によって、日本列島はすでに島国ではなく、地球を包む空間を通じて、物理的には世界中どこにでも続いている。その証明として、日本にはあらゆる地方からの人や文字、電波の侵入があり、すでに明確な国境がなくなっている。今、私たちは、多民族、多宗教、多文化社会の中に暮しているのである。これこそ21世紀的国際化の見本であろう。

 これまでの日本は、自然発生的な国家で、単一文化、単一民族的な傾向が強く、社会的な団結力があり、活力や向上心があった。かつては両親が民族的日本人で、日本で生まれ育った子供は自然に社会的日本人になっていた。しかし、これからの国際化した日本では、社会的日本人を育成するために大変な努力と工夫を必要とするだろう。

 大陸の中の人々は、自分たちの社会の後継者を造るため大変な努力を有史以来続けてきた。さもなければ、民族社会は維持できなかったのである。高等な文明社会に発展した日本は、文明の利器によって宇宙空間の国際的国家となり、すでに複合文化の多民族社会になっている。この社会を継続させていくためには、大陸の多民族国家の人々が努力したと同じように、後継者造りに大変な努力と犠牲を払わねばならない。その1つとして、青少年が野外文化活動などを通じて社会を営むに必要な知恵を培い、基層文化を体験的に共有する機会と場をつくることである。今後は島国であった時代の認識を改め、人文科学的に社会人を意識しなければ、後継者は育たない。その後継者造りの知恵こそ21世紀の社会にとって大変重要な課題である。

     機関誌「野外活動(現:野外文化)」第73号(昭和59年12月20日)巻頭より