子どもの遊びの形態と文化的特徴(昭和61年)

子どもの遊びの形態と文化的特徴

よりよい社会人に必要な基本的能力は、発達段階に応じて培われるべきものであるが、その習得には、幼少年時代の素朴な遊びほど重要なものはない。

1.遊びは民族文化の原点  

 いつの時代も社会人は、よりよい後継者を育む努力をしてきた。人類は有史以来このことを忘れなかったので、今日のような社会人になれたし、多くの民族にわかれもした。よりよい社会人に必要な基本的能力は、発達段階に応じて培われるべきものであるが、その習得には、幼少年時代の素朴な遊びほど重要なものはない。

 子どもは常に大人を真似ることによって遊びを発見し、工夫するので、民族の特性は、子どもの遊びによって伝承されがちなのである。だから遊びをしない子は、よりよい後継者にはなり難い。

 先のアジア大会で日本選手の成績があまりよくなかった。その理由は、全力で闘う闘志に欠け、豊かさ、便利さの中で、万事に張りを失いつつあるからだと言われている。それらも理由の1つだろうが、青年の多くは、幼少年時代、遊びに熱中することなく、大変冷めた目で多くのことを見ていたし、信頼できる社会の権威を持ってもいないので、社会人の共通性や名誉心、闘争心よりも、自分の納得する合理性を重んじるようになり、日本のためになどという社会的な気持が弱いことにもよるだろう。

 子どもはいつの時代も、遊びを通して言葉や風習などの基層文化を習得し、社会意識や意欲の芽生えがあるのだが、今日の日本人は、この民族文化の原点の重要性を忘れがちである。

2.遊び方の違い

 人類の社会形態は、定住社会と不定住社会に類別でき、文化的には統一文化と復合文化に分けることができる。

 日本は、定住社会で統一文化をもち、単一民族に近い信頼社会を長く続けてきた。そのため、家が孤立することなく、街路から屋内が見え、庭がそのまま外に続く開放型である。しかし、大陸の諸国は、不定住社会が多く、複合文化と多民族の不信社会で、絶えない紛争や戦争のため家は壁に囲まれて孤立し、庭は家の中にあって閉鎖型で、街は要塞化している。

 子どもの遊びは、こうした民族特有の社会的、文化的影響を受けやすく、遊び方も状況によってちがっている。

 日本の子どもの遊びは、昔からガキ大将を中心に集団的になされてきた。これは定住社会の年功序列の風習をそのまま真似たものである。ガキ大将は一種の世話役や調停役であり、指導者であって、集団での権威と権力をもっていた。だから、ガキ大将集団がいろいろな遊びをするので、個人の得意、不得意、好き嫌いにはこだわらなかった。個人はAという遊びができなくてもBができ、A、B、CができなくてもDができるという特異性をもちながら、いやな遊びでも一通りやらなければならなかった。だから遊びが多面的で、没我的のあいまいな集団型であった。

 一方、日本以外の多民族、多文化社会では、遊び集団にガキ大将は必要ない。Aという遊びが好きな子はA、Bが好きな子はBに、子どもが自主的に好きな遊びに集うので、その遊びの技術が上手な者が強いのである。だからAを遊ぶ子はB、C、Dを知らないことか多い。とにかく、年功序列などなく、遊びの規則を守って勝てばいいので、勝負にこだわり、権威よりも権力的になりがちである。時には腕力がものをいうことさえあるが、遊びそのものは下克上で大変合理的だ。とにかく、遊びは単面的で、自己主張の強い闘争的な個人型である。

 こうした子ども時代の遊びの本質が、社会人の文化的原点になっていることは今も変わりない。しかし、日本文化の特徴でもあったガキ大将集団の遊びはすでに衰退している。

3.日本文化の特徴

 定住社会で集団型の遊びによって育った日本人は、世界のどの民族にもない文化的特徴をもっていた。それは年功序列という、時がくれば下の者が上になれるという忍耐と、信頼社会の口約束によるあいまいさである。

 日本人は幼少年時代からガキ大将という世話役を中心にした集団遊びに慣れたので、集団の同一性と画一性を好む。だから個の存在を主張したり、個人的行動は不得意だったりする。しかし、集団行動は大変得意で、上下の一体感が強く、集団としての活力と多面性を十分に発揮する知恵があった。だから、個人ではなく集団の中の個の質を向上することによって全体をレベルアップする考えが強い。

 地球上の多くの人々は、人が人を信頼でき、社会を信頼できることを理想としているのだが、多民族、多文化社会では大変困難なことで、同一性を確認する手段として絶対的な宗教がある。ところか、日本では人が人を直接に信頼することが普通で、人と人の間に宗教など必要としないし、裏切りや背信を最も嫌う。しかも、権力よりも権威を重んじ、人徳なる博愛的平和主義の心情を尊ぶ。

 大陸の諸国は、多民族国家で、支配者と被支配者が民族的に異なる場合か多い。だから、時の権力者を異民族と見なして権力闘争をくり返すことができるが、日本では支配者も同民族であり、下の者でも上になれる可能性があるので不満があっても時のくるのを待つ。明治維新以後の権力者の多くは、いずれも一般大衆の者が、長年努力して地位を得たものである。だから、中国や韓国などよりも上下の一体感が強い。

 世界の多くの国々を比較してみるに、日本ほど人間讃歌の文化をもつ社会は他にないのではないだろうか。それは子どもの遊び方や青年期の確立された社会制度からもいえることであるか、はたしてこれが人類史の中で正しく評価されるのだろうか。

4.子どもから大人へ

 素朴な遊びをする少年期の次の、準社会人ともいえる青年期が、日本ほどはっきり型をなしていた民族社会は少ない。一般的に16から25歳までが青年期だが、前半は少年期の子ども時代をひきずっており、遊びを芸術的にしたり、高度な技術を習得したりする。だから、遊びに関して、青年期は少年期の親玉的な存在なのである。

 不定住社会、特に遊牧民社会には青年期がはっきりしていない。男女とも12、3歳になると、大人と行動を共にして見習いを始める。そして16、7歳で1人前になり、結婚することで社会から容認される。だから子どもとしての素朴な遊びは12、3歳までで、その後は趣味としての遊びである。そのせいか、遊びが合理的で、技術面を重視し、かけごと的に勝負にこだわる。なんとなく遊びに余裕がない。これは、青年期を確立することのできない不安定な社会状態であったためで、余裕がない結果的現象だともいえる。

 ところが、津々浦々にまで青年期が確立されていた日本は、各地に伝統文化が伝承された大衆文化と貴族文化の合体した、世界的には大変珍しい民族文化を形成している。

 日本には古くから若衆宿、若者組なる青年集団があり、やがて青年団の名称に変わった。第二次世界大戦後は、アメリカ文化の影響で青年団組織が衰退し、青年期が不明になりがちであったが、昭和35年頃から、『青年の家』が建設され、形式的にでも青年期の再確認がなされた。しかし、それは大衆に根ざしたものではなく、行政のポーズでしかなかったので、社会の後継者としての青年期がはっきりしなくなり、趣味を同じくする若者たちの集団と化してしまった。それは、子どもの遊びにゆとりがなくなり、手段とお金にこだわりが生じだしたことにも原因がある。

 豊かで高等な文明社会になった日本は、すでに子どもの遊びが個人型になり、青年期が失われた。今あるのは。個人的な青年期でしかない。いや、すでに少年期すらなくなりかけ、社会の後継者としての基層文化の共有が困難になりつつある。

             機関誌「野外文化」第84号(昭和61年10月25日)巻頭より