われらは生きている (平成13年)

われらは生きている

1.ヒ.
 
 
 
ト3は弱く生まれる

 人の子のヒトは、動物界の中で非常に弱い状態で生まれてくる。身を守るための力を何ももたず、言葉を話すことも2本足で立って歩くことも、食物をとって食べることもできない。

 10月10日の月満ちて生まれてくる赤ん坊であるヒトの身体は、人の型をしているが、最も重要な脳が未熟の状態で僅か四百グラムでしかない。その脳は、生後6ヶ月で2倍になり、7~8歳で大人の90%に達し、身体のどの部分よりも早く発達する。

 他の動物の仔は、早いと数時間、遅くとも数年で、親とほぼ同じような状態になる。

 ヒトは人になる可能性のある幼少時に、人に育てられないと、人になるための言葉や態度、習慣等が身につき難い。それは人であるための役目を果たす脳の発達初期に、人間らしく作用する基本(ハードウェア)がしっかり作られないからである。

 ヒトは昔も今も、そしてこれからも、人になる可能性をもって生まれた、非社会的、非文化的な動物的人間なので、人に護られ、人になるために訓練されるべきものである。

2.人は社会的に強く育つ

 ヒトは、人に護られ、人を模倣し、いろいろな体験によって育ち、10歳前後までに脳の神経細胞が発達して、考えたり、創造したりする能力(ソフトウェア)が培われて、やっと社会的、文化的な人になる。

 人とは、二足直立歩行ができ、家族という社会的単位をもって言葉を話す霊長類のことであるが、今日の日本では家族が崩壊しかけている。

 人は、生きるための力が他の動物のようにDNA(遺伝子)に組み込まれておらず、生まれた後に、模倣と訓練によって他の動物にはない創意工夫する能力を培い、15歳頃までに言葉や技術・態度や価値観等の文化を身につけて、社会人として一人前になり得る。

 人は、体験的学習を通して社会を営む知恵を身につけることによって、他のいかなる動物よりも心身ともに強い状態の社会人に育つ。

3.われらが共有する文化

 人は肉体と精神によって生かされている。肉体を生命とすると、生命あっての精神であるので、生きるに値すると思うこうとは、精神によって規定される。

 その人は、集団と個か対立するのではなく、いかなる個も集団的規定をなくしては存在しえない。ということは精神によって認知される文化を共有することである。

 人の文化的集団を“社会”と呼ぶが、社会とは、共通性のある個人が信頼によって、または規約の下に集い合っている状態のことである。

 ここでの“文化”とは、その社会で培われ、社会の人々に共有され、伝承される、生活様式、すなわち生きるに値すると感じられる“生活文化”のことである。この文化は、いたるところで人の生活を規制し、社会的圧力をかけているが、集団の永続と結束をはかるようにできており、秩序ある生活と個人の精神・気持ちを満たすものである。そのため、この文化を共有しないと社会は崩壊しがちになる。

 社会を文化的にまとめた集団を“民族”と呼ぶが、民族とは共通の生活様式をもち、同一集団に帰属意識アイデンティティー)を強くもつ人々のことである。ここでいう生活様式とは、その土地に馴染んだ衣食住の仕方、あり方、言語、風習、価値観、道具、家屋等の生活文化のことである。

 私たちが日常生活でそれほど意識しないでなす、いろいろな生活習慣は、先祖代々の長い間にわたって自然環境に順応する知恵として培われた伝統文化で、われら社会人にとって共有することの必要な、生きるに値すると思われる生活文化なのである。

4.歴史的社会に生きる

 人は弱く生まれ、強く育ち、やがて死ぬ。しかし、何世代、何十世代と繰り返し、これからもずっと同じように繰り返すことを信じて、歴史的社会の人として生きている。

 その世代世代に、地位や名誉や利益を得ようと努力、工夫することや、喧嘩やテロや戦争をすることも、歴史的社会に生きていることの証明でしかない。しかし、一万数千年の文化的歴史をもつ人類が、少しも変わっていないことの証明ではない。人はいつの時代にも文化を培い、よりよく改善する努力と工夫を重ねてきた。

 われらは生き活きてここにある。人として生きているということは、社会に拘束されていることだ。ということは、人は1人では決して生きられないので、社会を信じるしか生きる道はない。

 人が社会的に生きるとは、模倣と訓練によって生きるに値すると思われる文化を習得し、己を強くして心を開き、社会を信頼することだ。それは誰かの側にいると安心、幸福、満足な気持ちになれることでもある。

 信頼できる人々のいる社会に所属する意識をもつことこそ、われらが生きている確かな証明である。

            機関誌「野外文化」第171号(平成13年10月10日)巻頭より