健康であるためには(昭和51年)

健康であるためには

 誰もが健康でありたいと願うが、それは子供の時にほぼ決定される。子供は本能的に生命力を養成しようと活動するもので、子供時代の少々のけがは、大人になってからの健康の勲章でもある。

1.子供はよくけがをする

 猿も仔猿の時は、よく木から落ちるが、人問の子供も、2本足で歩くとよくころぶ。木から落ちたり、転んだりすると痛いことは、猿の仔も人間の子供も同じである。痛いから落ちないように、転ばないように気をつけるようになる。しかし木に登れるようになり、歩けるようになると、より高いところ、より遠いところへ行き、長い間その行為を続けるようになる。すると更に未経験の諸々にそうぐうし、その度に失敗をくり返す。小さな失敗は大きな失敗を防ぐための本能的な訓練であるが、子供はそれを防衛能力向上のための自発的行為だとは知らない。もし親も知らずに、安全という名目の過保護であるならば、子供は、ある日突然に大きな失敗をする。

 子供は自分の周囲の諸々に経験不足、認識不足から、毎日のように驚き、何でも確かめようと手で触れてみる。そして、これから長い間、己の生命を維持する体力づくりのために、たえず全身を活動させるので、時には思いがけない事故を起すこともある。しかし、少々の傷や骨折くらいなら、長い人生において、災い転じて福となすことでもある。

2.冒険好きは健康体

 生命力を養成するための肉体的欲望と、思考力を豊かにしようとする知的欲望から、子供はたえず未知なるものに向って好奇心を持つ。だから、高い所に上がるなと命令しても上がるし、遠くへ行くなといっても遠くへ行き、いたずらするなといってもやってしまう。それはこれから、いかなる自然環境の中でも順応してより長く生きようとする、本能的な知力と体力養成のためである。

 人間が成長してゆく上において、知的冒険よりも肉体的冒険の方が先に芽生える。それは何より、生命あっての思考であり、喜びであり、悲しみであり、悩みだから。だから、言葉を知るよりも、美や数を知るよりも自分の肉体のリズムとエネルギギーと自由な活動に喜びを覚え、走り回り、ころげ、より高い所に登り、物を投げ、少々の傷でもなおればすぐに活動し、相手に興味を覚え、組合ったり、さわったり、なめたりする。大人の目からすると小さなことでも、子供にとっては大きな冒険をたえずくり返している。それは大人になるための日進月歩の訓練なのである。

 もし、その自発的な冒険的訓練を大人の手によって規制したならば、その子供は、大人になるための、十分な肉体的訓練がなされずに成長する。いくら外形的に整った肉体になっても、反射神経や自律神経、足や手の筋力が大人としての生命力を長く維持するために不十分なまま成長することになる。

3.少年期の大いなる遊び

 4~5歳から受験のために、肉体的訓練の自発的冒険を規制すれば、その子供がどんなに知的に優秀でも、4、50歳になると体力が弱まり、不健康がちになる。人間は、物や知識を今日ほど得なくても生きてゆけるが、生命力を維持する体力を養成しなければ長くは生きられないし、健康を維持できない。生命力を維持するために必要な肉体的訓練は、誕生してから20歳頃までの成長期に、約90パーセント依存し、成人後はいくらスポーツしても10パーセント程度でしかない。特に3~4歳ごろから12、3歳ごろまでに6、70パーセントが依存している。だから、青少年期の冒険的肉体訓練は、大人になってからの健康に大きな影響力がある。

 幼少年期には、危険をまだ十分に知らないので、長い人生を健康に生きようとする基礎訓練としての肉体的冒険が安全にできるように、大人が保護し、機会を与えてやることが必要。知的冒険心は少年期の中期から始まるもので、4~5歳の子供が知的にすぐれていると思うのは、大人の錯覚である。子供は、なんでも、模倣し、本能的に好奇心を持って行動するからこそ、だいたんに冒険する。子供の大いなる遊びの冒険こそ、心身を健全にはぐくみ、心にゆとりのある人物を養成する。

4.健康は足から

 小さな冒険をくり返して、何が危険で、何が安全か、そして何が喜びであり、豊かさであるかを知るものであって、いくら言葉で説明されても本当の安全はわからないし、いくら物質的に恵まれても本当の豊かさや喜びはわからない。

 部屋の中でいつも知的冒険心と競争心だけを植えつけられ、間接的情報によって教育された少年は、大人になってから心のゆとりを失い、豊かさや生きがいの本質を失い、健康を維持するための体力がおとりがちになる。だから親が子供の将来のためにと、知識教育に専念しすぎることは、かえって子供の不幸を招くことになりがちである。人間は知識がいかに豊かになっても、肉体は幼児、少年、青年期と長い年月を経て徐々に成長する。

 やはり、肉体の成長に見合った運動と知識教育が必要なのであって、知識教育を異常な早さで行なうことは、動物である人間にとって不健全な状態である。大人になってから生命力を維持するために必要な肉体的訓練の必要度は、一生の中ではわずか10パーセントくらいであるが、これは健康管理に必要な知的冒険心によってなされる。だから肉体的冒険はしなくとも、かつて経験した肉体的訓練を己の意志に基づいて適当にくり返すだけでよい。

 大人が健康管理のため肉体を訓練するのには、特別の施設も、他人の協力も、援助も必要としない。

 大地と空気と水さえあればどこでも運動が可能である。街路でも、工場の中や屋上でも、森林や野原でも、2本の足と手を動かす運動をするだけでよい。人間は生まれた時は4つ足で、やがて2本足になり、そして3本足になって死んでゆく。2本足で歩ける時、誰でもできる歩く運動を適度に行うことこそ、最高の健康管理なのである。だから、人間の歩くという肉体的欲望のみならず、知的欲望である克己心をも満足させるために、「歩く禅」である「43キロ飲まず食わずかち歩き大会」を、東京で毎年2回開催している。

           ZIGZAG(現:野外文化)第27号(昭和51年5月10日)巻頭より