青年の行動の原点(昭和60年)

青年の行動の原点

 行動が正しいかどうかは後日にまかせるしか方法がないので、ことの始まりを知り、経過を意識することができるならば、まず己の信ずるところに従って行動することである。

1.ふるさとからの出発

 幼少年時代を過したふるさとの海や川、野山は実に素晴しく、街は情緒があり、人々はいつも変りなく元気なのである。しかし、いつも変りない幻想の世界を求めて帰省すると、世界一素晴しいはずのふるさとは、広くもなければ美しくもない、ごく普通の街であり自然でしかない。ただ、ふるさとをはなれた年月が過ぎていくにしたがって、見知らぬ人が多くなるだけである。

 ふるさとは常に心の中にあるもので、現実にはもう幼少年時代の世界に戻ることはできない。しかし、いろいろな人々と共に体験した、数えきれない想い出を脳裡から消すことはできない。この幼少年時代に培われたふるさとの情感が、いつ、いかなる時にも励まし、慰めてくれ、善悪の価値基準になりうるし、社会の見本ともなる。

 いつの時代にも、比較する知識をもたず、目の前がすべての世界である子供にとって、周囲の街や自然は素晴しく大きな世界なのである。ふるさとは、成人後にはつくることのできない、幼少年時代の偉大なる宝物なのだ。この宝物をより多く両手にかかえて巣立つ

 若人こそ、活力と行動力に満ちた青年なのにちがいない。そして、そのふるさとは常に心の支えとなって共にある。

2.経過の中の夢

 「このごろの子供は遊びを知らない」

 よく耳にすることだが、実に身勝手な言い種である。子供はもともと本能的なこと以外は知らないもので、いろいろな機会と場を通じて、体験的に遊び方を覚えるものである。今の子供は、見覚える機会と場がないので、遊び方を知らず、遊べない、遊びたがらないだけのことである。

 ところが、この遊びの体験が少ないことは、活力のある豊かな人間性を育むことに大きな問題点がある。それは、素朴な心での共同体験が少ないため、見習う喜びを欠き、協調性や指導性の社会的意義を認め難く、ことの経過と結果による納得を知ることができないまま成長し、精神的幼稚化現象の青少年が多くなることである。

 いかなる時代にも、文化的伝承は納得なくしては不可能であり、納得は実体験なくしてはありえない。幼少年時代にいろいろな遊びなどの野外文化活動を共同体験しえなかった青年は、あらゆる面で社会の後継者になりえないし、活力も行動力も弱い。今日の青年の白けムードは、この幼少年時代の共同体験の少ないことに起因するものと思われる。

 子どもはいろいろな遊びごとがただ面白く、楽しいから遊んでいるだけのことだが、一度覚えた遊びは、何十年後にも出来るし、ちょっとしたヒントで思い出すことができる。そして、気づいていなかった遊びの論理や効果について、しばらくたってからやっと知ることができ、「なるほど…」と納得することも多い。この納得の経験のない青年は発想が貧弱で独自性が弱く、長期的展望が立たないので、現実的になりやすく、行動力に欠ける。

 社会状況が向上又は安定している時にはよいが、不安定又は下降している場合には、幼少年から青年期により多くの共同体験をし、納得できる機会と場をもって洞察力を身につけておかないと、ますます落ち込んでしまう。

 とにかく、幼少年時代の単純な遊びの世界から、大人の複雑で文化的な世界までの経過と結果を知ることが知恵なのだが、青年は、結果よりも経過の面白さに夢中になることが行動力を培うことになる。

3.結果を恐れない行動

 昭和60年は国際青年年であり、政府は青年中心の事業に脚光を浴びせようとし、突然に青年意識をもたされた若者たちが、戸惑いながら周囲をながめている様子である。

 「青少年健全育成」とよくいわれるが、青少年は健全に育成されたいなどと思ってはいない。それは、彼らがことの経過をそれほど意識していないし、まだ結果をよく知らないからである。しかし、数十%の少年は、ことの始まりを全身で感知し、青年はその経過について意識をもっているはずである。そして、その意識か青年に限りない夢を与え、結果を恐れない冒険的な行動をおこさせる。

 ところが、ここでよく考えなくてはならないのは、幼少年時代に自然環境や社会との結びつきを知らないままで育った青年は、知識的には秀れていても、ことの経過を意識する知恵をもっていないことである。ということは、ことの始まりを知らないし、自主的参画の方法を身につけていないままであるということだ。

 今日の多くの青年は、小学1年生から知識教育重視の社会環境に育ち、野外文化活動などの共同体験をもつ機会が少なかったので、社会人としての基本的理念が弱い。彼らの多くは、物心ついて以来、知るため、又は生きるための手段ばかり学習してきたので、自らことを始める知恵が少なく、すでに既成の生活に疲れてうんざりしている。

 孔子の「論語」には、“吾、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る……”とある。しかし、今日では、人間の本質は変っていないと思われるのだが、“吾、五にして学ばされ、十有五にして立ち、二十にして惑わず、二十五 にして天命を知る……”となりがちである。

 自分が経済的に豊かになることだけを望み、社会のために尽すことを意識せず、世界で最も社会とかかわりをもちたがらない消極的、無関心な青年の多い日本で、突然に“国際青年年だ!”という叫び声がこだました。しかし、今まで受験戦争の中であえいでいた多くの若者たちは、社会の後継者たりうる青年になるための社会的、人間的な準備をしないままなのである。

 子供たちが青年になるためには、やはり小中学校時代に、野外文化活動などの共同体験を通して、社会性や人間性を培っておかなければならない。そして、義務教育は受験用や生産手段のためにあるのではなく、社会の基本三要素である“徳知体”を十分に習得させるゆとりが必要である。

4.己を信じ実行あるのみ

 青少年の社会教育で重要なのは、ことの始まりと経過を知らせることであって、結果を教えることではない。結果を知りすぎると夢も冒険も膨らむことはないし、行動への活力も衰退し、若さがなくなってしまう。

 受験戦争で知識重視の教育を受けてきた青年は、すでに理論の世界で結果を知っているので、夢や冒険などにロマンを感じることが少なく、行動力が弱くなりがちであるが、青年の活発な行動力は、ふるさとが世界一素晴しいと思えるような没我的な思いいれや、比較するものを多くもたない純心さからくるものである。その行動が正しいかどうかの判断は後日にまかせるしか方法がないので、ことの始まりを知り、経過を意識することができるならば、まず己の信ずるところに従って行動することである。実行しなかった悔みは長く尾をひくが、行動の結果を悔むことは納得しやすく、再出発の知恵とすることができる。

 青年は、結果を恐れることなく、多くの行動を積み重ねることによって活力を培い、次なる行動へと躍進する。そして、行動はいつも大胆かつ繊細にあるべきで、無謀であってはなるまい。青年は、ことの経過の中にいる己を信じて行動するから燃える。

     機関誌「野外活動(現:野外文化)」第74号(昭和60年2月20日)巻頭より