少年教育と暗闇体験(平成19年)

少年教育と暗闇体験

1.暗闇の不安

 闇とは、光が全くささず、何も見えない状態のことで、“一寸先は闇”、“闇にまぎれる”“真相が闇に葬られる”等と使われている。

 古来、人類が最も恐れたのは闇であり“魔の闇”とも表現された。光のない世界は、不安と孤独にさいなまれ、安心がない。その恐怖心が人を謙虚にさせ、他人への依頼や協力、協調の心が強く芽生える。

 自分にはいかんともし難い闇の世界にこそ、畏まる、慎んだ態度、姿勢になれる。闇とは人の心に神を具現化する機会と場なのである。

 人類は古代から様々なことを経て、闇の恐怖から逃れるために、徐々に文明の利器を開発、発展させてきた。その1つが闇を征する灯りであった。灯りを点すこと、照明は、神に近づけた証明であり、心の自由を得ることであった。

 しかし、今日の人類が、明るい文明的社会にどっぷり浸って驕り高ぶっていたとしても、まだ闇を恐れる心情が消えている訳ではない。

2.社会の信頼と協力

 社会とは、共通の文化をもった人々または一定の規則の下に、2人以上が集まった状態である。ここでの共通の文化とは、言葉、道徳心、戒め、風俗習慣等のことである。

 社会に最も必要な文化遺産は、信頼と協力である。それは、言葉や活字によって伝えられるものでも、法律などによって強制されるものでもない。お互いに通じる共通の意識、価値観、社会性等の文化によって育まれるものである。

 社会では、理屈で知ることよりも、道理を弁えて実践することが重要である。しかし、今日の文明社会では、知ることを中心に考え、実践することを重視してはいない。だから、信頼も協力も社会的役目を果たす意義が薄れ、個々の知的世界の戯言に成り下かっている。

 人は、闇の世界で不安と孤独にさいなまれるようなことを体験しない限り、他人の存在を疎ましく思い、社会の必要性を具体的に知ることはできない。より良く生きるための社会を大前提にすることの出来ない人に、信頼や協力の重要性を説いても詮無いことである。

3.文明の利器と人間性

 日進月歩の文明社会で、物質的欲望を募らせ、資本主義を邁進する利己的な人々は、畏まる闇の世界よりも、経済的不況を恐れているのかもしれない。

 しかし、彼らの人間性が本質的に変わったわけではない。変わっているのは、彼らを取り巻く文明的諸現象である。ここでの人間性とは、正直、親切、忍耐、信頼、活力等の個人の特性、内容のことである。

 文明の利器は、日常生活をより良く、快適に、便利にするためのものであって、人間性を変えたり、失わせたりするためのものではない。

 公教育の目的は、社会が安定・継続するために必要な後継者を育成することである。そのためには、まず、社会生活に必要な心掛けであり、社会に共通する文化の共有化を促し、社会性を豊かに培う社会化教育を充実させることである。

 しかし、今日の学校教育は、よりよい社会人になる準備としての社会化教育が大変おろそかになっている。

4.中学生に暗闇体験を

 生きる力とは、社会に共通する文化としての基本的能力を身につけることなので、今日の学校教育にも、人間性や社会性を豊かに培う、社会化教育としての体験活動を取り入れるべきである。その体験活動は近代的なスポーツやアメリカ的野外レクリエーション、職業訓練的なことではなく、日常生活に必要なごく当たり前のことや、人間の基本的能力を高めるものでなくてはならない。

 人間教育にとって、古代から最も重要であったと思われるのは、不安が募る暗闇体験である。それを多感な中学生時代に1度は体験させることが必要。

 中学生は、自分ではもう1人前だと虚勢を張り、他人に耳を貸そうとしない中途半端な状態にありがちだ。そんな彼らには、否応もなく畏まる気持ちや心情が募る、暗闇体験が必要なのである。

 少年教育としての暗闇体験は、野外レクリエーション的なナイトハイクや夜の自然観察や肝試し的なことではない。ましてや、日中、作為的に目隠しをして他人の力を借りていろいろな行動をしたり、歩いたりすることでもない。暗い夜道を、目を開けたまま、全神経を緊張させながら、一人又は2~3人で2~10キロメートルを歩くことである。

 いつの時代にも、人間教育に合理的、効果的な近道はないが、古代から変わることのない暗闇に対する不安や孤独感が、やさしさと強さ、信頼性と協調性を促してくれることは間違いない。

         機関誌「野外文化」第193号(平成19年4月20日)巻頭より