少年が父になるために(平成11年)

少年が父になるために

 出産は女性の特権かと思いきや、本年2月下旬の新聞に“男性でも腸内に受精卵を注入して子を産むことが可能である”というイギリスの医学者発表のニュースが記載されていた。

 真偽のほどは別として、雄である男性に子を産ませようなどという発想は、自然の法則を冒涜することではなかろうか。

 そう思っていると、今度は3月2日、厚生省が少子化対策として、“育児をしない男を、父とは呼ばない”というポスターを、10万枚も作製して日本中に配布し、新聞や雑誌、テレビ、ラジオでも広報するというニュースが流れた。

 これも自然や社会の法則を十分に理解していない若い女性の意見を、正義や真理と錯覚した若い男性たちの短絡的な行為のように思えるのだが。

 何より、女性側の主張通り、“育児をしない男を、父と呼ばない”とするならば、「ごもっともです」と言葉だけで同意する男性が増え、世の中に“父なし子”が多くなるにちがいない。

 私たちが忘れてならないことは、動物としての自然の法則である。

 動物の雌である女性は、男性に比べ、非活動的で保守的な行動をしがちな安定指向で、体内に子を宿し、乳を与える機能を持っている。そして、約10ヶ月も胎内で育んだ子を産む女性の本能は母性愛であった。ところが、雄である男性は女性に比べ、活動的で冒険的な行動をしがちな不安定指向で、子を産む肉体的機能を持っていない。

 人類の雌である女性と、雄である男性というのは、社会的動物用語であり、少女、娘、女や少年、青年、男というのは動物的社会用語である。そして、母や父という言葉は、文化的社会用語なのである。

 こうした女性と男性が、母親と父親になる過程において、大きな違いがある。女性は自然に少女から女になり、母親になり得るが、男性はそれができない。社会的作為をしないまま放置すれば、少年、又は雄、男のままになりがちなのである。

 もともと母性本能の強い家族的な女性は、個人的にも社会的にも男性より労働意欲が強く、家族社会を支えてきた。しかし、女の性には、月に一度変調をきたし、感情の起伏の激しい時がある。これはより多くの人々への対応や、感覚を平常に保つ必要のある社会的な面からすると、男性に比べ弱点である。男は、女に比べて肉体の変化や感情の起伏が少なく、積極的で遠視眼的な特質を持っている。

 幼少年期の大半を母親と過ごす子どもたちは、一種のすりこみ現象として、母親からあらゆることを学ぶ。留守をしがちな父親が、言葉や文字で教育しても、母親の影響力にはとうてい及ばない。人類の文化伝承者は母親である女性なのである。

 動物の多くが母系社会であるように、人類も本来母系社会であったと思われる。しかし、社会が発展し、人口が増え、文化が向上するに従って、近視眼的で保守的安定指向の女性中心では少々荷が重すぎるようになり、社会的には弱い立場の男性を強くする必要性に迫られるようになった。

 そこで、世の知恵者たちは、男を社会的に強くし、責任感を持たせるために、「お前は男だ、お前は強いんだ」の倫理を教えるようになった。それが家庭教育としての“しつけ”や地域社会における祭りや年中行事、その他の儀式などを通して行われた、“社会人準備教育”となり、徐々に少年から青年、そして男になるように育成し、結果的に父親になれるようにし向けて、父系社会を作り上げてきた。

 日本のような、定住稲作農耕民文化の父系社会は、社会的に強い女性と弱い男性が、社会を発展、継続させる知恵として、家庭や地域社会の教育によって、少年が父になるために、作為的に男性を強くした文化的な社会なのであった。だから、幼少年時に倫理教育をしないで放置すれば、父親になろうとしない男性が多くなる。

 今日の日本のように、豊かな科学的文明社会の男女平等主義の下で暮らす俸給生活民は、母親を中心とする小規模的中性化社会を作りがちである。

 中性化した社会は、人々に社会的目標や価値観の共通性、生き甲斐等を失わせ、活力や発展性が弱くなり、哀退していく。

 こうした不安定な中性化社会に対応する知恵は、男性に子を産ませたり、育児させたりすることよりも、幼少年時代によりよい家庭教育や社会教育による社会人準備教育をして、社会的責任感のある男を育成し、父になれるように仕向けることなのである。

            機関誌「野外文化」第159号(平成11年4月20日)巻頭より