エリートになるための必要条件(昭和55年)

エリートになるための必要条件

 人間の偉大さは.いつの時代にも、努力と工夫を続けることであり、その喜びを知っている者が、真のエリートなのである。

1.防衛能力の養成

 「猿も木から落ちる」いや、1歳くらいまでの猿は地上生活が多く、しょっちゅう木から落ちている。とっ組み合い、噛み合い、追っかけ合い、木にかけ登り、枝をつかみそこねて数メートル下の大地に落ち、自らの失敗に驚く。しばらくするとまた同じことを繰り返す。楽しいのか、面白いのか、ひっくり返っては飛び上り、キーキー、キャーキャー、表情明るく鳴き叫ぶ。しかし、2歳頃からはめったなことでは落ちなくなり、樹上生活が多く、やがて動き回ることをやめる。

 人間の子供も、這っては立ち、立っては歩き、歩いては走るが、よく転がって膝を擦りむいたり、額をぶっつけたり、痛い思いをして泣くが、泣きやむとまた同じことをする。時には大失敗によって傷痕を残すこともある。ところが、10歳くらいになるとめったに転ばなくなり、12歳にもなると反射神経や筋力が培われ、転ぶ前に手を出して身を守るようになる。

 これは、60年、70年もの長い人生を生き抜く自己防衛能力を培うための本能的な行為なので、本人が意識的に行動しているわけではない。しかし、長い人生というマラソンの準備体操なので、これを欠いては走り通せない。

 人間にとって何が大事かは、主義思想や宗教などによっていささか異なるが、個人にとっては、何よりも“生きる”ことが最も重要だ。しかも、エリートの可能性を追求する者は、心身を鍛え、いかなる環境でも、生きぬく防衛能力を培っておくことが望まれる。

 「私は長生きしたから偉いのだ」

かつての宰相吉田茂は、90歳の長寿を全うして言いきった。天才でない限り、自分の願いと努力が報いられるには、長い歳月が必要なことは歴史上の事実である。

 いかなる人間も、幼少年時代に総合的な体力を培うことこそ、人生を快活に健康に生きる基本であり、生命を長く維持する必要条件である。

 

2.判断力と自主性の開発

 エリートには、“作られるエリート”と“なるエリート”の2種類がある。作られるエリートには必ずスポンサー、または操縦者がいる。だから指示通り、ロボットのように訓練され、人生計画を持たず、自主性や判断力を必要としないが、自らの努力によってなるエリートには、たとえスポンサーがいても、自主性と判断力が不可欠である。

 人間の自主性や判断力の基本は、幼少年時代の“遊び”の中に芽生え、歳月と共に感性が磨かれる。“遊びは文化より古い”

 人類学者、J・ホイジンガは、人間にとっての遊びの重要性を主張しているのだが、幼い頃、いろいろな遊びを体験した者にはすぐ理解できる。

 子供は思い切りがよく、何でも、ごくあっさりやってしまう。それは、大人ほど判断力がなく、すぐに行動に移すからだ。石けり遊びの時、石をねらいの地点まで飛ばしたり、「ヤッ!」とばかり蹴ったりするときのスリルと快感は何とも言えない。鬼ごっこで、ちらっとしか見えないのに、その特徴を見い出して、名前を正確に呼び当てた時には、痛快な気持ちになる、それは一種の快感であり、一種の自己陶酔でもある。それだけではなく、一種のギャンブルだ。そのために子供は、時聞のたつのも忘れて遊びに興じ、次々と新しい遊びを発見しマスターする。子供は遊びを通じての純粋な創造の中で、その方法と成果を身を持って確かめながら判断力を培う。

 子供に遊びとけんかは付き物である。子供は自分の欲望だけを頑強に押し通す時期から、自然に自己主張の仕方を覚え、他人との協調性を身につける。これは、親や先生が教えても、本を読んでも身につくものではない。友達と一緒に遊び、泣いたり笑ったり、けんかをしたりする体験を通して正しい自己主張が培われる。自信のある自己主張こそ自主性を培う基本である。

 

3.努力と工夫の継続

 幼児はよくグラスを持って遊ぶ。板の間では、1人で1時間でも2時間でも遊んでいる。グラスの手の感触、形を確かめ、色を見、転がして方向を見定め、音を聞く。

 やがて手に持つ遊びから、それを手離す遊びになり、グラスを投げる。カシャンと音高く壊れ、形がなくなったのを知って泣き叫ぶ。

 少年は遊びの道具、特に技や時間を競う遊びの道具にはたいてい工夫を加え、よりよくするために最善の努力を借しまない。決していいかげんではない。負ければ勝つために、悪ければ良くするために情熱を注ぐ。そんな努力と工夫を重ねることによって道具の本質を見極め、ゲームの技術が上達する。単純だが、道具の原理を理解し、行為の成果を確かめることによって、ゲーム全体の状況を判断する力が培われる。現状に埋没しない改革と改善の価値観は、この判断力の集積によるものだ。

 子供は自分の遊びの道具を改善する努力と工夫の成果によって、行為の結果的な喜びを覚える。しかし、白己満足ではいられないし、繰り返すことに不満もない。知識の世界のようにパターン化したものではなく、方法はいくらでもあり、ごまかしがきかない。この遊びの中に、努力と工夫の必要性を発見した者は、いかなることにも改革と改善が必要なことを知っている。

 遊びをやらされ、道具を与えられたにすぎない者は、そのゲームの方法は知っていても、本当の面白さを知らない。

 人間の偉大さは、いつの時代にも、努力と工夫を続けることであり、その喜びを知っている者が真のエリートなのである。

 

4.社会意識の向上

 フランス語による、選ばれた人という意味の、エリートとは何か簡単に明記することはできないが、少なくても、①社会の精鋭であり、②権力の追随者であり、③生存競争の勝者であり、④世襲的地位のある者であろう。

 いずれにしろ、社会の上層部に位置した人々のことである。となると、エリートは、向上心と社会意識のない者にはあまり縁のない世界だ。

 子供から老人までが共に生きている社会は、それぞれの年代に10%の導く者と、90%の導かれる者からなっている。

 これは理論的には否定できても、現実的には否定のしようのないことだ。作為的に選ばれたにしろ、合理的に選ばれたにしろ、社会に10%のエリートは必要であるが、社会意識のないエリートは90%の導かれる側にとって必要悪である。

 社会は全員の力で支えられているが、その力を効果的に発揮するには、正常な社会意識の強いエリートの力量に頼るしかない。社会意識は、幼少年時代の遊びによって培かわれ、知的欲望と異年齢集団の野外文化活動によって向上するものであり、主義・思想や宗教による独善や、知識教育によってのみ培かわれるものではない。

     昭和55年6月20日発行 機関誌野外活動(現:野外文化)第46号 巻頭より