日本人の保証(昭和56年)

日本人の保証

 人間は不安で満たされないときは努力し安全を求め、平和で豊かなときには労働意欲をなくし快楽を求める。しかし、いかなるときにも人間の最後の保証は自然の恵みである。

1.世界の中の自分の大地

 私は過去11年間に111ヵ国の国々を探訪した。地球上の自然の恵みは不均等であったが、どんなところにも人間は自然に順応し、社会を営みつつ人間的な生活をしていた。地球上の38億もの人間のなかには、幸福とか平和、文化、文明とかの意味を知らずに生活している人々が多かった。また、不幸とか不満、不安を感じすぎている人々も多かった。なかには、欲望と快楽と独善のかたまりのような人々もいた。とにかく人間の社会は10人であろうが、1億人であろうが別に変ることはなかった。

 昭和50年11月28日、全日本が公労協の「スト権スト」のまっただ中にある。私は東京にいた午後10時、いつもは中央線が走ってうるさいのに、まるで未開地にいるように静かだ。

 私は異国でふと不安にかられた時、いつでも帰ることのできる自分の大地を想ってなぐさめた。自分の大地。正確にはそんなものはない。しかし、この地球上で、自分のもっとも使いやすい言葉で、習慣で、最も落着いて生活できる大地の存在を信じている。ただそれだけで不安からまぬがれる。ただそれだけで幸せを感じる。ただそれだけで生きる喜びを感じる。

 私は今自分の大地にいる。しかし、聞こえるはずの国電の走る音が聞こえない。私1人が聞こえないのか、日本人1億人が聞こえないのか…。ふと不安がよぎる。

 社会の法則によって 私はいつも国電に乗っていた。私はいつも電話していた。私はいつも赤いポストにハガキを投げ込んでいたし、いつも手紙を受け取っていた。

 国電は止まった。手紙もこなかった。私はふと自分が信じている自分の大地と社会について考えた。自分の社会日本では376,000平方キロメートルの中に1億もの人間が住んでいた。皆それぞれ自分の生活を持っている。権利と主義を主張する個性の強い一億人が豊かな社会生活を営んでいる。その1人1人の保証は社会の法則によって保たれていた。しかし、それは人間が考えて作ったものであり、人間が破るものでもあって、不変なものではない。結局、道徳も、法律も、保険も、年金も我々の社会の存在なくしては、個人にとって何の保証もないのである。

 

2.大地の保証がない

 人間の社会が便宜上使っている貨幣は、人間にとっては最後の保証ではない。社会の存在がなければ紙クズであり、アルミや銅のかたまりでしかない。文明がいかに進歩しても、人間が生きるために食べる物は生物である。特に大地に生える植物の恩恵が大である。だから、人間は大地の保証なくしては生きられない。

 しかし、困ったことに、日本の大地は約5000万人が生きるにふさわしい面積だという。他の国々について調べてみると、米国は面積が日本の約25倍、人口が約2倍。中国は面積が約25倍、人口が8倍。ソ連は面積が約57倍、人口が2・5倍。スウェーデンは面積が約1.3倍、人口はなんと12分の1倍。フランスは面積が1.5倍、人口が約半分。ドイツやイギリス、イタリアなどは面積が約10分の7倍、人口は約半分。しかし、耕地可能面積比が日本より大である。オーストラリアにおよんでは面積が21倍、人口は僅か9分の1倍。こう列記してみると、どの国も1人当たりの大地の保証が日本よりも大である。

 

3.最後の保証とは

 日本人の半分が大地の保証を得ることができないならば、一体どうすればよいのだろう。

 日本人は昔から勤勉でよく働いていたという。働かなければ食べられなかったのだろう。もしかすると、これまでの日本人は自分達の大地の立地条件を肌で感じ、働くことが最後の保証だということを、先祖代々の知恵として知っていたのかもしれない。

 フランス人が家を建てる話をし、ドイツ人が政治の話をし、アメリカ人が戦争の話をし、中国人やソ連人がイデオロギーの話をし、イタリア人やスイス人が食物の話をすれば、日本人は労働の話をすればよい。

 フランス人がワインを飲んで昼寝し、ドイツ人がビールを飲んでじゃがいもを食べ、アメリカ人がビーフステーキを食べてドルをポッケに入れて遊び歩き、イギリス人がスコッチを飲んで紳士面をし、ソ連人がウォッカを飲んでイデオロギー論争すれば、日本人は米や魚を食べて酒を飲み、手を叩いて歌い、そして共に働けばよい。そんな馬鹿な話しがあるかといっても、自然は人類すべてに平等ではない。国というものが作為的なもので、そんな地域性はなくせよというなら、人間の社会は必要なく家庭も必要ないということになる。

 1億の人間が豊かに平和に生きるための保証は、自然的立地条件を理解し、他のいかなる国々の人々よりも知恵と知識を身につけて、汗を惜しまず努力することである。それを勘違いして、砂上の楼閣的豊かさをもって、アメリカやフランス、ドイツ、イタリア、イギリス、中国やソ連などにすべてを右へ習えをしていては、自分達の墓穴を掘るようなものだ。日本には日本人の社会があり、独自性がなくてはなるまい。そして、世界の国々と協力しあうところに貿易立国の活路がひらける。

 ストもデモもよいが、自分達の社会を忘れた、頭デッカチの行為なら、1億人の保証のためにはならんことを知ってほしい。

 日本人のすべてが、今一度、この繁栄と平和の原点にたちかえってみる時がやって来た。

 友よ!汗を惜しむな、我々の保証は我々の優秀な手の中にある。

       機関誌「ZIGZAG(現:野外文化)」第25号(昭和56年12月6日)巻頭より