民族的日本人とは(昭和52年)

民族的日本人とは

 人間は、インターナショナルになればなるほどナショナルになり、年長者になればなるほど閉鎖的で、若ければ若いほど解放的である。

 

1.日本人とは

 「日本人とは?」と尋ねられて、まともに答えられる日本人は少ない。

 日本人という意味には民族的日本人と社会的日本人の2通りの区別が必要である。

 民族的日本人とは、両親を日本人とする人々のことであり、社会的日本人とは、日本語を話し、日本の風俗習慣を理解し、日本人として社会の義務と責任を果している人のことである。

 これまでの人間は生物的“人種”と文化的な“民族”、そして政治的な“国民”に区別されてきたが、国際化がすすめばこのような区別は必要なくなるが、“民族”だけではかなり長く残るだろう。

 だから、アメリカに移民した日系人は、人種的には日本人だが、社会的にはアメリカ人であり、日本に移住して、居住権を持った外国人は、民族的には外国人だが、社会的には日本人である。これからの国際化時代には、社会的日本人が多くなるだろうが、四世代からは同化した民族的日本人と見なすことになるだろう。

 一般的に、日本人とは民族的日本人のことであるが、自分たちの社会を営む自覚の薄い日本人には、その認識が乏しい。だから、外国人を見ても、外見だけや、概念だけで判断してしまい、相手の社会性や特質を無視しがちである。国内における日本人同志でも、日本の社会というよりも、自分の社会という関わり方でしか判断しない習慣があり、社会人としての認識が狭い。

 

2.民族的日本人の本質

 日本人は生まれながらにして、民族的日本人ではない。民族的日本人にするには、社会人準備教育が必要である。

 人間は、自分たちの社会を営むために、次の世代に色々な知恵を伝授してきた。だから言葉を伝える文字が発明され、風土によって、風俗習慣が異なって、その特質をもつようになった。社会人準備教育とはそれらの特質を伝授することである。

 日本人的発想とか、日本人的というのは、民族的日本人の風俗習慣をいうのであって、人種的日本人の特徴ではない。人間は環境の変化に順応する能力を持っているので、生活環境によっては、社会的特質はかなり変ってくる。だから、人種的特徴は骨格や肌の色等の肉体的なものだけで、文化や風俗習慣や思考方法は環境によって変わる。

 民族的日本人の言葉や風俗習慣は、何千年もの間に、日本人の知恵と体験から培われたものであって、一夜にできたものではない。しかし、これらは不変ではない。もし環境や風俗習慣が20年ごとに変化すれば、人種的には同じでも、社会的には異なった日本人が日本国内に住むことになる。そうなれば、コミュニケーションや社会生活に不便と不和が生じやすくなる。だから、親から子、子から孫へと、あらゆる場と共同体験を通じて、自分たちの社会を営みやすいように言葉を教え、風俗習慣を教える。それが、社会人準備教育の根本なのである。

 人種的日本人が、社会を営むために、青少年に社会人準備教育することは、500年も1000年も前から行われてきた。今日のような学校教育はわずか百年ほど前からのことであり、机上の知識だけの教育の歴史は浅い。にもかかわらず、発展した文明社会に住む日本人は、知識偏重の学校教育の重視により、民族的日本人の本質を失いかけている。

 

3.子供から老人までの共同体験

 人間は同年輩だけを集めると、競争心は強くなるが、親切心や包容力、そして社会構成がわからなくなる。学校の知識教育においてはよしとしても、学校外における社会人準備教育においては、子供から老人までが、行動を共にしたり、同じことを体験させたりすることによって、民族的日本人としての知識と知恵を習得させることが必要である。活字や講義による知識教育ではなく、共同体験を通じて社会の営み方と人間性を知らせることは、有史以前から続いている人間社会の後継者を培う知恵であった。だから、子供から老人までが共に行動して楽しめる行事や祭りなどが各地で催されている。

 日本人の風俗習慣は、民族的日本人が勝手に作ったものではなく、日本の風土から培われたものでもある。だから、民族的日本人が日本の大地を離れない限り、日本の自然を無視することはできないし、主義思想や、政治形態が異なっても、生活習慣や言葉は簡単には変らない。

 

4.体験活動を通じての社会人準備教育

 日本人の文化の大半が、日本の自然に培われたものなので、民族的日本人の思考の根底には、日本の自然的条件が大きな影響力を持つ。だから、今日の学校教育の中にも、日本の自然との関りを教える体験活動を通じて社会人準備教育することが必要である。そのためには、学校の先生がその知識と知恵と体験を必要とするので、先生を養成する大学の教職過程の中に、生活体験を必修科目とすることが必要。また、義務教育の小、中学校のカリキュラムにも、生活する喜びや、自然との関りを知らせる機会となるような、農作業などの体験活動を、スポーツ以外の正課として取り入れるべきである。

 知識偏重教育になりがちな今日の文明社会の中で、青少年が社会を営む知恵を習得することは困難であるが、子供から老人までが共同体験を持つこと、特に野外で行動を共にすることによって、日本人としての、知恵が伝授されることを再認識する必要がある。

 社会の中心は、政治であり、政治の中心は、日本人の量よりも質である。政治的、経済的にまがりかどにきた日本の新しい道は、日本人が政治を無視せず、主義思想のみによって判断しないことである。

      機関誌「ZIGZAG(現:野外文化)」第32号(昭和52年8月29日)巻頭より