日本国の再認識(昭和62年)

日本国の再認識

人類の発展を促す方法の1つとして、日本人は驕(おご)ることなく、世界の異文化としての日本社会を更に充実し、発展させる努力と工夫を続けることが望まれる。

 

1.自然と文化の特徴

 いかなる民族も、自然と共に生きているのだか、日本人にもっとも大きな文化的影響を及ぼしたのは、正確に繰り返す自然現象である。

 『季節は巡り、時刻は流れる』

 季節は自然である。季節はほぼ同じサイクルで巡り来る。巡り来る季節は神の恵みである。

 時刻は文化である。時刻は永遠に同じ早さで流れ続ける。流れる時刻は生物の生命でもある。

 流れる時刻は、全人類が平等に与えられているが、巡り来る季節は地球上の場所によって不平等である。

 乾燥しがちな厳しい自然環境で家畜と共に暮らす人々は、草のある季節を追って移動生活をするが、季節か多くの物を恵んでくれる豊かな自然環境の日本では、少々辛くてもじっと待つ定住生活をしてきた。しかも、日本の季節は複雑に変化するので、繊細な心配りの知恵をも授けてくれた。日本人が意識する、しないにかかわらず、日本人の特徴は物を追いかける開拓精神よりも、自然と共に生きる「待ち」と「工夫」の文化であった。だから、物を発見したり、発明したりするのは得意ではなく、自然環境の厳しい所で孤立して生きるよりも、集団的な生活を好み、社会人の心得を大切にし、物を利用したり、応用したりすることが得意であった。

 季節の巡り来るのをじっと待った定住社会は、先祖代々知り合った集団で、家族のような信頼感と道徳心によって成り立っていた。そして、更にこの自然の特徴を工夫して、美術、工芸や文学、思想の世界にまで応用、利用したのである。しかも、たえず改革改善を加えながら伝承し、今日の姿にまで到達させた努力と工夫は、社会教育充実の証明である。確かに、産業革命による生産手段のための知識教育が遅れはしていたが、より高度な文化社会を営む社会人準備教育が遅れていたのではなかった。

 

2.変わることと変わらないこと

 時刻の流れは正確なので、やがて21世紀がやってくる期待と不安がどうしても高まってくる。そして、更に、科学技術か急速に進歩するので、誰もが一層不安になり、なんだかあらゆることが変わるような錯覚におちいりがちになる。しかし、すべてが変わることは決してない。社会の表層的な多くのことが変わっても、基層的なことの多くはなかなか変わらないものである。

 今、大事なことは、21世紀に向かって変わらないこと、変えてはいけないこと、変わるだろうこと、変えなければならないことの選別や確認をすることである。

 いつの時代も変わりないのは、物の道理を識る知恵としての心得であり、時の流れと社会情勢によって変わるのは、知恵のなさを補う道具と、その扱い方なのである。

 文明社会の表層的諸現象は変わるであろうし、変えなくてはならないこともあるが、自然の一部である人間の本質は、5000年前と比べ、それほど変わってはいない。しかし、保身のための文明器具の発明によって、より快適に生活できるようになり、自然の変化に順応する能力は衰退している。文明化か進めば進むほど、順応力は低下し易すくなりがちなので、自然と共に生きる基本的能力ともいえる健康管理に支障をきたし、人間らしく生きることができなくなる可能性もある。だから、幼少年時代に基本的能力を培う機会と場をもつことが大事なのである。

 これからの日本が国際社会となり、多くの異民族が移住したり、日本人の多くが海外に移住したりすることになったとしても、日本列島の自然は変化しない。文化が自然環境に順応して生きる知恵なら、日本列島に生きる人間の基本的な文化は21世紀になっても大きく変化はしない。もし変化させようとするなら、大変な労力と犠牲を払わなければならないし、結果的には自然のしっぺ返しをくって、人間そのものに異常をきたすであろう。

 

3.国際化の中で

 日本は地理的には島国であるが、科学的にはすでに大陸の中のオアシス都市と同じように、世界中に通じている。しかし、発想の原点に、何故か今もまだ島国的な傾向があるのか、「国際」という言葉を好んで使うし、そうなって欲しいという願望か強い。そのせいか、4、5年前までは「国際的」という言葉がよく使われていた。それがいつ変わったのか定かではないが、この頃は「国際化」という言葉になった。

 日本人以外の人々がいう「国際的」というのは、自国の貿易や平和、安全、繁栄などのために他国と話し合うことである。ところが、日本人の多くは、国籍、又は国境を意識せず、外国語が話せ、仕事であれ、遊びであれ、外国によく行き、知人や友人がいる人のことを国際的と表現する。おかしなことに、その人が、外国に対し日本をどれだけ紹介したのかについてはあまり関心を示さない。

 ヨーロッパやアメリカ諸国に限らず、アジアやアフリカでも、多くの人々が外国で働いている。中には学問のためや芸術のためもあるが、個人的な生活手段としての外国生活者をよい意味で国際的とは表現しない。

 それでは国際化とはいかようなものであろうか。それは多分、2国間以上に共通することという意味で使われている言葉であろう。特に、経済的な面と、科学の先端技術的な面で言われていることでもある。

 しかし、今日の日本では、これを教育や文化、社会性や道徳心にまで適応しかけているような気がする。なんでもかんでも、他に合わせようとする傾向が国際化と思われがちである。だから、国際化のためには、区別があってはならないし、国家なるものも必要ないとでもいわぬばかりに、経済的、外交的に八方に頭を下げ、波風を立てぬよう努力している。

 2つ以上の国が話し合ったり、行動を共にしたりすることが国際的であるなら、2つ以上の国が共通または共有することが国際化ともいえるが、ここで重要なのは、何をしてはいけないかをはっきりさせておくことだろう。そして、自分たちの社会の確立がない限り、国際的も国際化も絵に描いた餅になりかねない。

 

4.異文化日本の役目

 日本以外での国際的というのは、自分の国にある文化、文明または、人が、他国にいかに役立ち、いかに影響したかであって、他国の模倣をすることではない。すなわち、独自性がどこまで普遍的に認められるかということである。

 これからの日本は、他に見習うことはできないし、無責任な経済活動は許されないので、ますます国際化という言葉が使われるようになるだろう。しかし、世界は一つの文化、1つの方法、1つの色に画一化されることはない。お互いに異なった文化の特色があるところに工夫と発展と努力がある。

 日本は、欧米とはかなり異質な文化を根底にもっている。そのことが、欧米のあらゆることを剌激し、21世紀への新しい波が起り始めている。日本か名実ともに初めて国際的になりつつある。

 ところが、今、日本はそのことに気づいていないかのように、経済的社会や情報化のための国際化という名のもとに、多くの社会形態や文化を欧米化しようとしている。たしかに、経済的社会や先端技術の面では一時的に好ましいこともあるだろうが、人類の未来を考えるならば、日本は欧米との異質を主張しながら、人類の平和と繁栄と発展に貢献すべきである。

 有史以来日本文化を焙ってきた日本人が、欧米の文化、文明を吸収して盲信した時代、反発した時代、そして蜜月の時代を通過して、今、やっと世界に例のない大輪の花を咲かせることができた。

 今こそ、この花を咲かせた日本の社会的、教育的、文化的特質を再認識すべきである。そのことをせず、経済的手段としての国際化を進めるならば、必ずや社会の内部衰退によっていきづまるにちがいない。そのことを日本人自らか自覚しない限り、人類の発展に寄与することは少なく、また多くの民族に理解されることはない。

 わたくしたちにとって、今のパンも大事だが、未来の人類の繁栄と発展、そして平和も大事なのだ。

 人類の発展を促す方法の1つとして、日本人は驕ることなく、世界の異文化としての日本社会を更に充実し、発展させる努力と工夫を続けることが望まれる。自由と平和と繁栄が続く限り、世界の学者や知識者が日本を調査研究し、宣伝しなくても国際的社会日本か誕生する。

             機関誌「野外文化」第86号(昭和62年2月20日)巻頭より