現代日本の怪物″ぎまん”(平成10年)

現代日本の怪物‶ぎまん“

 怪物とは正体不明の物、化け物のことである。昔、平安時代に京都の夜空に出没したといわれる怪物“ぬえ”は、人間の恐怖心を吸い込んでエネルギーにしたといわれている。しかし、今日の砂漠化した日本人社会に棲む怪物“ぎまん”は、人間の邪心を吸い込んでエネルギーとするのである。

 ぎまんは、主に家の屋根裏や床下に棲んでいたが、今では、巨大なビルの中にも棲んでいる。時には森や公園、庭の木や人の心の中にも棲みつく。自由自在に飛ぶことができ、暗い所や夜を好むが、邪心を持つ人がいれば、白昼にも活動する。しかし、正義にはいたって弱い怪物である。古代から人間と共に生きてきたのだが、道徳心や信頼感の強さによって蔓延したり、巨大化したりすることが防がれてきた。

 豊かな科学的文明社会日本では、“ぬえ”はすでに絶滅しかけているが、“ぎまん”は繁栄と共に、増えてきた。特に、バブル全盛時代には数が多くなり、しかも巨大化した。当時の日本人は、発展のためには少々の邪悪をも容認し、浪費を美徳とさえして、利己主義的享楽文明社会を謳歌した。そのため、ぎまんがどのくらい蔓延しているのか判明し得なかった。

 やがて、金権主義のマネーゲームに陰りが生じ、人々が社会的意義や目標を失ってくると、ぎまんによる犠牲者の多くが助けを求めて声を発するようになった。そして、やっと、道徳心や信頼の心が必要なことを多くの人々か再認識し始めた。

 その矢先、和歌山のカレー毒物混入事件が起こった。この辺りでは十数年も前から度々薬物中毒らしき患者がでていたが、保健所も、病院も、警察も、マスコミも殆ど注意を払ってはいなかった。そんな社会状況下での事件であった。

 この事件は、毒物を混入した犯人が、最も大きなぎまんの犠牲者であるが、事件を一層大きくしたのは、この犯人を取り巻く日本人社会の、ぎまんによる犠牲者たちの仕業である。

 まず、保健所が、食中毒と薬物中毒の特徴的症状の区別ができなかったことである。そして次には、3つの大きな病院の医師たちが、64名もの患者を診ていながら、食中毒と薬物中毒の区別ができず、半日近くも食中毒として対処したことである。結果、4人もの患者が死亡した。

 医者は、国家試験に合格した医療の専門家である。その人たちが、保健所が食中毒と言えば、ほぼ全員で認めてしまうことは、ぎまんが大活躍している証拠である。と同時に、医学が、国家試験に合格するための知識や技能でしかなかったともいえる。

 私たち日本人の公衆衛生指導や健康相談などに対応する保健所が形骸化し、生命を守ってくれる医師はすでに医術者ではなく、医学者になってしまい、現場での対応かできなくなっているのだろうか。

 この事件は、犯人とみられる人物が、まだぎまんの虜になっているので、未だに解決していないが、大惨事になったにもかかわらず、保健所や医師たちが、責任を感じて謝罪したというニュースを耳にしたことはない。怪物“ぎまん”の犠牲になっていることにまだ気づいていないのだろうか。

 オウム真理教の一連の事件や山一・野村証券は言うに及ばず、住専問題、長銀、その他の金融機関の不良債権問題、防衛庁、厚生省、大蔵省、その他、大小の行政機関の汚職事件、教育や研究機関等々の問題全てが、日本人社会に巣くう怪物“ぎまん”の犠牲的社会現象なのである。

 このぎまんを撲滅することは不可能であるが、勢力を弱めることはできる。それにはまず、ぎまんのエネルギーとなる邪心や猜疑心を少なくすることである。次には、形骸化した資格試験制度や権威主義を改善すること、そして、科学万能的な発展主義を改めることである。何より、人類の最高の文化である“道徳心”と“信頼”を大切にする価値観を広めることである。

 半世紀もの長い間、経済活動を最優先してきた日本人社会は、怪物“ぎまん”の蔓延を許し、多くの人々をその犠牲にさせてきたが、やっとこの頃、追放しようとする気運か高まってきた。

 これから最も大切なことは、社会悪である“ぎまん”を大きくさせてはならないことを強く認識し、幼少年者に正邪を教育することである。そして、幼少年者が明るく、元気に、安心して暮せるように環境を整備し、道徳心と信頼の文化をしっかりと伝えられる、社会人準備教育としての体験的学習の機会と場を多くすることである。

           機関誌「野外文化」第157号(平成10年12月18日)巻頭より