そろばんとはしは無用か(昭和53年)

そろばんとはしは無用か

 ローマ時代に、食べ物を一度食べて吐き出し、また食べたという、あの異常な時代にも、その社会に住んでいる人々は、何も異常だと思わなかった。

 この頃ふいと腹が立つ。何故か埋由ははっきりしない。しかし、食堂でスプーンを握るような不格好な手つきではしを持っている青年を見たり、暗算のできない奴を見たりすると、後になって誰がこんなことをさせたのかと叫びたくなる。手先の不器用な人を叱るのでも、けなすのでもないが、やけにそうした人が多くなっている今日、この頃の現状が気に入らない。だから気づかないうちに、そうさせられた彼らのために腹を立てているのだ。

1.計算に弱い欧米人

 私は小さい時から、日本人は手先が器用で繊細な頭脳をしているので計算に強いと教えられた。しかし、それが訓練によってそうなったとは、誰もいわなかった。日本民族は生まれながらに優秀なんだということだった。

 日本は戦争に負けて、アメリカの支配を受けていた。その頃、アメションやパリションといわれる短期間の旅行に行った学者先生方は、さも欧米のすべてを見たかのごとく、日本を比較しながら色々書いて下さった。私たちはそれをひとつひとつ領いて、なるほど、だから日本は駄目だったのかなどと、アメリカやヨーロッパ崇拝になってしまい、日本を否定した。そんな中で、たった1つ自信と誇りと腹いせがないまぜになって、私の中に芽生えたことがある。それは、日本人は手先が世界一器用なんだということと暗算が素早くできるということだった。

 「アメリカ人は図体は大きいが、足腰が弱くて手先は無器用だよ。だからすもうや柔道なんか弱いしトランジスターラジオやカメラや時計なんて精密機械はできない。日本人は手先が器用なんで、今に日本が精密機械の生産量は世界一になるよ」

 偉い先生方はよくいった。私は内心嬉しかった。希望がもてた。頼もしかった。そんじや自分も何かしなきゃいかんなといつも考えていた。

 「欧米に行くと、タバコの釣銭をよく間違えるんだ。優秀な人間は優秀だが庶民は頭脳が弱いよ。わずかな金のことでも、両手の指を折って計算したり、一つ一つ紙に書いたりして計算するんだ。見ているとあわれだよ。あんな国がよくもまあ近代文明を作ったもんだ。あきれるよ。アメリカなんていう国も庶民の教育レベルは低いね」

 こんな話もしてもらった。どれもこれも驚くことばかり。生まれて初めて聞くことだから、何でもかんでも信じた。

2.計算器買って下さい

 あれから何年たったのか。年数を数えていると「俺はまだ若い」なんて思っている自分に自信をなくさせるので数えないことにしているが、今になって周囲を眺めると、あの時聞いた欧米の現象がそっくりそのまま今の日本で見られるのである。

 「卓上計算器を買って下さい。さもなければ仕事しません」

 私達が働いている小さな事務所で、事務の若い人が私にくってかかる。彼は大学を卒業したての22才だった。

 「じょうだんいうな。それくらいの会計ならそろばんでやれ」

 「そろばんなんてしたことない」。

彼は当り前のように、何の恥らいもなく言う。しかし、私には信じられない。日本人がそろばんを知らないとは。

 「小学校で習わなかったのか」

 「習いませんよ。今時そろばんやる奴は少ないですよ」

 「じゃあ何で計算するんだ?」

 「ポケット計算器です。こんなに小さくて便利なのがあるんですよ」

 「そんなこと知っているよ」

 私は腹立たしくいった。別に彼に腹が立っているのではない。そろばんの使い方も教えずに卒業させる日本の義務教育に腹が立った。

 「そろばんを練習しろ」

「今時そろばんを練習して何の役に立つんです?…。加減乗除、二重根三重根何でもござれの計算器があるのに、古いことをおっしゃる……」

 青年は私をからかう。

 「君、そろばんができないと、頭と手先が不器用になるぞ。それを知らないんだろう」

 「頭や手先が不器用になってもコンピューターがやってくれますよ、何をいちいち心配しているのですか」

 「頼りすぎだよ。日本人が優秀な頭脳や器用な手先になるための訓練を全部やめてしまって、機械に便われる人間ばかり作る教育をしやがって……」

 私は青年の前でいった。別に彼を叱っているのではない。

 「僕を怒っても仕方ないでしょう、もっと偉い人の前でいって下さいよ」

 彼は困ったような表情をした。

 「でもあなたは変っていますね。今時そろばんを使えなんて…」

 「変ってなんかいないよ。そろばんが今の日本を作ってきたんだ。はしが今の日本を作ってきたんだ。君達はそんなこと知らんだろう」

 私は怒った。本当に怒りたかった。

 「そんなことが教育や日本の現在と何の関わりがあるんです?」

 彼は私をとがめるようにいった。

 「そろばんやはしを使う手先の器用さと、そろばんやはしを使う繊細な頭脳が今の日本に発展させたといっているのだ」

 私は周囲のみんなに向って叫んだ。

3.そろばんは頭脳の根源

 今の子供は鉛筆が削れないというし、はしも持てないし、暗算もできないという。タバコの釣銭だってよく間違うと言われている。

 誰が誰のためにそうさせたのか。その方がよいというのか。そろばんやはしを使うことのできない者は、コンピューターに使われ、そろばんやはしを十分に使いこなせる者は、コンピューターを使う頭脳と器用さを持っている。

 いつか、アフリカに行った土木建築家が言っていた。「アフリカには九九式の掛け算がない。だから、測量の計算ができない。測量技術を教えるには。まず九九を教えなければならない」

 早く計算できるために考案された五つ珠のそろばんは日本だけにしかない。九九だってない所もある。はしだってなくて、手で食べる人々もいる。

 「文明の発展のために、文化が後退をすれば、長い歴史上では無益なことだ。発展途上において、人々は往々にして異常な社会を正常とみなすことが、歴史上に度々あった」。

 私の友人が私をなぐさめるようにいってくれた。

 言葉や文字ではどうにでも表現できる。安心もできる。しかし、現実の社会の流れをなかなか変えられない。では誰がこの流れを作っているのか。私たち1人ずつだ。あなたであり、あなたの知人であり友人なのだ。

 私は。ローマ時代に、食べ物を一度食べて吐き出し、また食べたという、あの異常な時代にも、その社会に住んでいる人には、何も異常だと思わなかったことを考えた。

 「そろばんは計算する頭脳の根源であり、はしは手先を器用にする基礎的訓練なのだ。そのために、日本人が苦労して考案し、改善して来たのだ。それを今更なくしてしまうなんておかしいよ。役に立たないものなら仕方ないが、知的生活の根源を作るエキスのようなものではないか。アメリカにはなくても日本にはあったのだ。どちらがよいのか、よく考えるべきだよ」

 私は青年に向かって言っていると思ったが、私の周囲には誰もいなかった。

      機関誌「ZIGZAG(現:野外文化)」第34号(昭和53年2月10日)巻頭より