戦後一世の本質(昭和52年)

戦後一世の本質

 ここでは昭和10年から21年頃までに小学校へ入学した人を戦中派とすると、昭和22年から30年までに入学した人を戦後一世とし、昭和39年までに入学した人を戦後二世とする。この後に戦後はない。

1.記憶の原点

 私は、高知県幡多郡小等町田ノ浦という、豊後水道に面した宿毛湾沿いの農家の次男として、昭和15年6月12日に生まれ、比較的豊かで、戦後の食糧難を知らずに育った。

 その私が、まじめなことを書くと、不まじめに思われ、男だものなどと気張ると、やっぱり駄目な奴だといわれてしまう。だから、気張ることなく書くのだが、どうしても隠せないことがある。

 それは、私が自然に恵まれた田舎育ちで日本の文化的重荷をすでに背負ってしまったことである。こればっかりは隠せないし、茶化すとかえってみじめになってしまう。だから私の時代性という歴史感は、いつも私につきまとうので、ありのままを記すしか方法がないとあきらめている。

 私の記憶の始まりというのは、大変大きな戦争が終った昭和20年8月前後なのである。そして、昭和22年4月、教育の場といわれる小学校に、戦後のどさくさの中で、桜のいっぱい咲いた晴れた日、敗戦の意味も知らずに胸を張って校門を潜った。そして、学校という面白い所へ通い、見たこともない写真や絵を見たり、聞いたりしたこともない物語や色々な話を聞いた。

 私は、自分が見たり聞いたりしたことを、大人たちはみんな知っているものだと思っていたら、大人たちも、私がものごとを知る驚きや喜びと同じように驚いたり、喜んだりしていたというのだから、社会的責任については私にも大人たちにも罪はない。

2.目に見える物だけが真実

 昭和20年8月を期して、日本人の価値観や思考形態がすっかり変ってしまったという。そんなことを知らない私たち、戦後最初に小学校へ入学した戦後一世に、知恵や知識など諸々を教えてくれた先輩たちが、私たちと一緒になって学んだのだから、教育の内容について誰を責めようにも責めるわけにいかない。それどころか、私たちは、なんでもかんでも目に見えるものは百パーセント信じ込んでしまったが、先輩たちは、なんでもかんでもはすに眺め、不安に暮れていたというから可愛そうだ。自信をなくした周囲の人々は、私たちの成長を期待し、戦後民主主義教育を受けた私たちの言動に感銘したり、驚いたり、喜んだり、怒ったり、あきれたりしながらも、自分たちの習慣や知恵を教えようとはしないで、傍観し続けた。

 私たちは、見るもの聞くこと、理想も現実も、過去も未来も、すべてごっちゃまぜに信じて考え、行動した。そして、戦後のめちゃくちゃな社会を頭から信じて、日本で最初に理想的な民主主義社会の住人になるよう育った。

 だから、私たちがまちがっていようが、正しかろうが、怒っていようが、悲しんでいようが、悔やんでいようが、戦後の民主主義教育を受けた理想的な日本人像は私たちなのだから、私たち自身でその自覚と責任と義務を認識する以外、比較のしようがないし、誰に文句のつけようもない。

3.過去のなかった戦後一世 

私たち、戦後最初に新しい民主教育の小学校に入学した日本人が、天才であろうが秀才であろうが、愚才であろうが全身で戦後の民主主義日本の理想を学び、不思議な社会現象を体験してきた。

 今ふりかえって考えるに、充分な知識も知恵もない、判断力の乏しい私たちに、先輩たちはいつも、好きなようにせよ、自由にせよ、一番良いと思ったことをせよと言ってくれた。

 私たちは、時には迷い、時には泣き、時には叫び、時には怒り、時には大笑いしながら、失敗と成功を繰り返し、理想的民主主義日本の最初の理想的住民になるよう育ったのである。それを忘れまい。それを悔やむまい。それを怒るまい。何より、それを知恵としてこれから生きてゆくしかないのだ。

 私は、昭和20年以前の日本の過去を無視して、理想と未来ばかりを暗中模索しながら成長した自分の過去を無視することはできない。

 昭和20年代に小学校に入学した戦後一世の中には、すでに30才を越えて、人生の甘さ辛さや、社会の裏表を知り、戦後の理想的民主主義教育を受けた自分たちの人間性や社会性の良さ、悪さを充分に認識された人もいるだろう。そして、多くの人がすでに人の子の親になっているだろう。そこで私たちが子供に向かって言えることは、暗中模索でやってきた体験としての過去である。私たちの過去とは民主主義日本の未来への力であり、洞察力なのだ。

4.ナイーブなロマンチスト

 私たち戦後一世の間では、真面目なことをまじめに記すと、面白くないとか、気負っているとか、1人よがりだとか、批評が洪水のように押し寄せる。だから、差し障りのないことを、面白おかしく記すのが普通になっている。

 私たちは、周囲の声や目には非常に敏感な人間に育っている。一見粗野だが、価値感の基準がはっきりしないので、神経質でナイーブな一面を身につけている。だから、体験的知恵を身につけることなく、活字や電波による間接的知識を崇拝するようにも育てられているし、思考の根底を培っているわけでもない。戦後一世は、すべて皆同じというオール3の理想的な感覚でスマートに育てられ、若い力を、とおだてられて育ったこともあるが、なんでもかんでも見て考え、感激し、いつまでも青春と夢を求める旅人。それが私たちの本質なのにちがいない。そしてまた、これからまだまだ見本のない民主主義日本の開拓と発展と充実を願って、自分たちの住んでいる社会で自信と責任を持ち、日常的な冒険と挑戦を試みようと努力するのが、私たちの姿でもある。

     機関誌「ZIGZAG(現:野外文化)」第33号(昭和52年10月10日)巻頭より