科学的文明社会と義務教育(平成27年)

科学的文明社会と義務教育

1.人類未経験の豊かな社会

 第二次世界大戦の戦後70周年目を迎えた人類は、これまでに経験したことのない、科学技術の発展した、豊かな時代を迎えている。特に日本は、大東亜(太平洋・東アジア)戦争を仕掛けて、多大な犠牲を払い、払わせてきたが、今では世界で最も発展した、平和な国になっている。

 戦争とは、虐殺・略奪・強姦等の集団的殺戮行為なので、良いとか正しいとか清い等の戦争は1つもない。戦争そのものが害悪なのだが、残念なことに、人類はその戦争によって物事の開発や発展のきっかけとなし、社会を改革・改善してきた。

 日本は、社会が統合されていたので、戦後の復興が世界の人々が驚くほど早かった。それは、アメリカの援助があったこともあるが、何より、明治時代からの教育振興や殖産興業、富国強兵政策等によって、社会の基盤が確立されていたからでもあった。

 人類史上においては、何が正しくて何が悪いかはなかなか確認できないが、今日の日本ほど平和で、安定した豊かな文明国は他にない。

2.科学的文明社会への対応

 電車の中でも街頭でもスマホを手にする人が多く、家庭や会社・学校でもパソコンを使い、子どもはゲーム機器で遊び、単独思考や行動をしがちな生活をしている。

 このような社会現象は、何も日本だけではなく、世界中に起こっていることで、今や人類は科学技術のとりこになって、利己的で刹那的になっている。

 人類が発明した科学技術の製品は、便利で都合がよく、楽しくて時間と空間を越えるが、それらを維持するためにエネルギーと経費が嵩み、その補給に追われて、落ち着きのない生活になりがちである。

 アフリカにあるタンザニアのマコンディ族に、「悪魔は相手の足だと思い、自分の足を喰っていることに気づかない」と言う言葉があり、その彫刻もある。

 人類は、便利さや快楽・豊かさを求めて科学的文明社会に埋没し、知らず知らずに自分をなぶり、いためつけているようだ。

 子どもは、そのことに気づかずに夢中になりがちだが、大人は、科学的文明社会への対応を考えて、人間らしさを失わせないようにする義務と社会的責任がある。

3.社会的な新しい教育観

 政府は、「多様な教育機会確保法案」を、議員立法に向けて提案しようとしているが、これは、学校における義務教育を受けなくてもよいことの公認になる。

 今日の若い親は、社会的には大人になりきれていない人が多く、その子どもは、利己的に育ち自分勝手で、自閉的になったり、登校拒否やいじめに陥りやすく、簡単に人を殺したり自死するようになっている。

 日本は、一千年以上も国体が変わらず、統合された利他的信頼社会である。極言すれば、人類の理想により近い社会で、多くの国の人々か来訪して、安心・安全を感じている。

 その日本が、利己的不信社会のアメリカのように、多様な教育機会を確保して、社会人準備教育でもある学校教育を受けなくてもよいとすれば、それこそ憲法に規定されている、義務教育をないがしろにすることになる。

 これからの科学的文明社会は、人間をますます孤立化し、非社会化しがちなので、新しい教育観として、義務教育における社会化が必要である。

4.これからの義務教育の役目

 人類は、これからも科学的文明社会を一層追求し、発展させるだろう。しかし、それは、私たちが安心:安全に生活かできるようにするためにである。とすると、これからの義務教育は、学力向上の知識・技能教育だけではなく、私たちの安心・安全と、社会か安定・継続するための人間教育が必要不可欠となる。

 私たち人間は社会的動物であるので、他と共に生きる人間性や社会性を身につけることが必須条件でもある。それには次のような体験が必要だ。

 泣かした・泣かされた、いじめた・いじめられた、笑った・笑われた、会った・別れた、楽しんだ・苦しんだ、思った・思われた…。これらは2人以上の集団によって起こる社会的

な心理現象である。このようなことを幼少年時代に、家庭や地域社会、そして学校等で体験することがなければ、より良い社会人になれないし、利己的で孤立化しやすくなる。

 人間は、幼少年期に群れ遊びなどの集団活動によって社会化が促された後に、学習によって個人化か促されることは、古代も今も同じなので、これからの科学的文明社会に対応する義務教育としての学校は、子どもたちを社会化する、社会人準備教育としての集団活動の機会と場をつくることが、一層重要になっている。

            機関誌「野外文化」第218号(平成27年8月25日)巻頭より