文化としての道徳心(令和元年)

文化としての道徳心

1.道徳心の起こり

 科学的文明が発達・発展して経済活動が活発化した今日、いろいろな社会問題が発生しているが、その主な原因は、人類に道徳心が薄れたことだろう。

 古来、人類か最も恐れたのは闇であり、光のない世界は、不安と孤独にさいなまれ、人を謙虚にさせ、畏まる、慎んだ態度・姿勢を具現化させる。

 人類は、その闇を制するために、文明の利器である灯明を徐々に開発、発展させたと同じように、多種多様な人が集う社会生活の不安や恐怖から逃れるため、徐々に規則や掟、慣例などを発展させた。

 その古くから培われた暗黙の了解事項を守って、不安や不信・不満をより少なくする人々の心がけが、“道徳心”である。

 道徳心は、社会生活を安全・安心に過ごす智恵であり、よりよく生きる心掛けとしての社会的危機管理能力でもある。

2.法律との違い

 稲作文化を中心とする定住社会であった日本は、社会の安定・継続を保つために信頼心を大事にしていた。そのため全体主義的になり、他人を思いやる道徳心が深まっていた。

 大陸における多民族の不信社会は、略奪や紛争などの不和が発生しやすく、やむなく移動したり、安易に移住したり、日常的な話し合いによる約束事が守られないことが多かったので、条文化しておくことが必要であった。その条文化した物が契約書であり、法律なのである。

 ここで言う“法律’は、時の政権が国会で決める、社会生活に必要なことを条文化したもので、応用がきかず覚えるものだが、恒常的ではなく、一夜で作文し、変えることができる。

 道徳心は、社会的遺産であり、各自が感じ、応用するもので、一世代で作ったり、変えたりすることが困難な伝統文化である。

 端的に言えば、法律は条文化されたことを覚えるもので、応用が利かないが、道徳心は伝統的な文化を感じて応用するものである。

 日本人の日常的道徳心は、嘘をつかない、騙さない、盗まない、他人を傷つけない(殺さない)、挨拶をする、約束を守るなどであったが、アメリカ化した今では、絵に描いた餅になっている。

 いかなる時代にも、社会的には道徳心が法律に勝っている。それは、条文化した法律には、抜け道があるが、道徳心には抜け道かないからだ。

3.社会的人と“個人”

 私たちが社会的人として生きることは、ある程度社会に拘束されており、社会的に生きることは、道徳心や風習、言葉などの生活文化を習得し、日常生活を営む社会を信頼することである。それは、誰かの傍にいると安全・安心・幸福・満足な気持ちになれることでもある。

 今問題になっている未婚化、少子化、個人化などは、非社会化現象である。社会生活を営む人類は、古代から種の保存と社会の安定・継続を願って、幼少年期から社会化教育、社会人準備教育をなしてきた。

 しかし、戦後のアメリカ的民主教育は、幼稚園児から自由・平等・権利などの守られる立場の個人化教育が優先し、集団化に必要な規則・競争・義務などの社会化教育が疎かになっていた。そのため、今日の日本人の多くは、思いやる心や絆などの社会的心理が希薄になって、道徳心が弱くなっている。

 日本以外の多民族社会は、自己防衛的に止むを得ず個人主義になりがちだが、“個人”と“個性”は基本的に違っている。

 社会にとって個々の“個性”は必要だが、個人にとって個性はない。社会が安定・継続するには生活文化を共有する社会的人が必要。社会的人の“社会人”と、利己的な人の“個人”とは、文化的には違っている。

4.文化観の違い

 今、日本はいろいろな面で世界から注目されているが、日本人が認識しておかなければいけないのは、欧米や中国大陸のような多民族による不信社会と、1300年以上も続いている天皇制を中心とした、統合された同族的な信頼社会における文化的、心理的価値観か微妙に違っていることである。

 一般的に言えることは、信頼社会は道徳心や口約束によって、不信社会は法律や契約書によって保たれてきたことである。

 何はともあれ、我々が楽しく、安心に暮らせるのは、どちらがよいとは断定できない。しかし、不信社会の人々の多くは、白分たちの価値感を一方的に主張しがちだが、実際には不安や不満か多く、不信感か強い。どちらかと言えば、信頼できる仲間のいる、信頼社会を望んでいる。

 信頼社会であった日本が、今は一億総活躍などと言って、幼児期の母親までも労働戦士とみなし、家庭を顧みさせない近視眼的政策を推進しているが、信頼心や絆、安心などを培う機会と場が殺がれ、道徳心が一層希薄になることを承知しておくべきである。

            機関誌「野外文化」第228号(令和元年10月18日)巻頭より