青少年教育と野外文化(昭和61年)

 野外文化活動はいかに文明が進歩しようと、人間の本質が変らない限り、社会生活を営む構成員の基本的な能力を育むために必要なことであり、人間の絆を培うものである。

1.青少年教育のねらい

 高等な文明的社会における青少年教育は、人類の共通課題であるが、その困難な大事業を成功裡になしえた民族又は国家はまだ存在していない。私は、ここに21世紀に向かっての青少年教育問題に対するヒントとして、野外文化の重要性を提唱するのである。

 戦後の教育は、人間性や社会性よりも、個人の知識や能力を培うことを中心になされてきた傾向が強かった。高まいな教育理想論によって学校教育が知識偏重になされてきたため、どうしても手段や方法に目が奪われ、健全な社会人の養成という狙いを失いがちであった。

 青少年教育といった場合は、学校教育だけでなく、家庭教育や社会教育をも含めていうのだが、戦後は学校教育だけが重視されがちであった。最も重要なのは、親が休験したことを子供に伝えることなのだが、それすらも忘れがちであった。そのため、青少年の健全育成が、学校中心に考えられ、社会性や人間性を培うにも学問的世界の知識論が普及し、社会人としての通過儀礼的行事か無視されがちだった。

 青少年の健全育成の目的は、個人の知識や能力を高めると同時に、社会人として、誰かと共に生きる基本的能力の養成が重要である。学校教育制度がなかった時代は、社会人になるための健全育成が主であった。

 戦後の教育ではあまり重要視されていない社会人として生きる基本的能力には、習慣的なものと精神的なものがある。習慣的能力とは衣服、食物、言語。清潔や安全などについての知恵である。これは人生の初段階から必要な素養で、一般的に家庭でその基礎が培われる“躾”のことである。

 精神的能力とは思いやり、親切、忍耐、正直、意欲、義務、責任、情操などであり、地域社会によって育まれる文化で、一般的に自然とのかかわりや二人以上の共同体験、祭りや年中行事などによって培われる。

 今日の日本の教育に欠けているのは、この基本的能力の養成ではないだろうか。そこで、生きる基本的能力を育むに最も効果的である野外文化の習得活動が必要になってくる。いかに高等な文明的社会に発展しても、社会人としての基本的能力を培う青少年教育をいい加減にすれば、明るく豊かな社会は約束されない。

 

2.野外文化とは

 ここにいう“野外”とは、屋内とか屋外をもって表現する文明的な概念ではなく、人間が自然と共に生きる野生的な世界を意味する言葉として使用するものである。

 また、野外文化といった場合の“文化”とは、社会人に必要な基本的な行動と心理状態のことであり、文化人類学的な表現をするならば、社会の成員に共通した行動や生活の様式を指している。

 一般的に文化と呼ばれる伝統的なものには、社会の表層と基層をなす二種がある。芸能、音楽、美術、文学などの表層文化は、個人的かつ流動的である。

これらは人類に共通した感性によって培われて発展し、生活に潤いをもたらすものとされている。

 衣、食、住、言葉、風習、心身の鍛練などの基層文化は、自然環境に順応して社会生活を営むための基本であるので、地域性が強く、親から子、子から孫へと伝承されがちなものである。これらを共有しないと、意志伝達が十分でなく、社会の一員になり難い。

 人類は自然に順応して生きるために、古より心身を鍛練すると共に、自分に都合のよい環境をつくる努力と工夫を続けてきた。人間も自然の一部ではあるが、工夫の加えられていない状態を大自然とするならば、都合のよいように工夫されている状態を小自然と表現することかできる。とするならば、文明とは、都合のよい小自然をつくる手段のことであり、文化とは、大自然に順応するための心身を鍛練する方法のことであるといえる。そして、文明は比較し、画一化することが可能であるが、文化は比較したり、画一化したりすることが大変困難である。

 このように考えてみると、ここに提唱する“野外文化”とは、大自然と共に生きるために心身を鍛練する方法や手段とその行動の結果として生みだされる心理状態(知識、態度、価値観)を意味する言葉であり、生きる基本的能力のことなのである。

 小自然は、文明の利器によってますます快適な環境となり、人間の心身の機能を衰退させがちになるが、大自然は変ることなく、人類にとってやはり厳しい環境である。いかに文明が進歩しても、大自然で生きる能力を育て、維持する努力を続けなくては、自然の一部である人間は、己自身の健康管理が不十分で、精神的な安らぎを得ることができない。

 人間の基本的な能力を培う方法ともいえる野外文化は、いかなる文明的社会でも、社会人にとって不可欠な要素であり、学習して身につける知恵でもある。しかも、身につけばつくほど、教養を高めることができ、心身の解放が容易になる理念的なものでもある。

 文明が高度に発展すればするほど、社会か複雑化し、人間の心身の機能が損なわれやすくなることは、すでに多くの人びとが指摘されていることであるが、文明の発展を否定することはできない。私たちがこれから最も注意しなければならないことは、いかなる社会環境でも、人間らしく生きる知恵、すなわち野外文化を幼少年時代から習得し、継続することの重要性である。

 以上のことから“野外文化”は、文明の発展によって表現される結果的現象にまどわされることなく、文明の利器による変化を認識し、人間本来の生命力の強さを培うための知恵、すなわち、社会人としての基本的能力を意味するものである。

 

3.野外文化の習得活動

 いかなる社会にも、基層文化を伝承する野外でのいろいろな身体活動があるか、それらを体育学的に考慮するよりも、教育人類学的な見解に立って、生活文化伝承の機会と場であり、情感を育み、身体を育成するための知恵とした方が、納得しやすい。

 そこで、私は、野外文化の習得活動を“野外文化活動”と呼び、野外文化活動を通じて行う青少年教育を”野外文化教育“と呼ぶことにした。だから、野外文化活動は野外の文化活動とするものではないと、野外文化活動でもないし、“アウトドアやアクティビティ”の翻訳である、アメリカ的な野外活動でもない。

 これまでの10数年間の実践活動を通して、野外文化活動を次のように定義することにした。

 『自然と共に生きる心身を培い、社会生活の基本的な行動や様式を習得するための身体活動』すなわち、自然を理解し、自然を利用し、自然と共に生きる心身を培い、社会にふさわしい常識を身につけるための身体活動のことである。

 野外文化活動は、学校教育の始まる以前から、青少年教育として地域社会で続けられていた野外でのいろいろな身体活動そのものであるので、スポーツ的な要素や娯楽的な要素、情操的な要素も含まれている。

 例えば、日本においては、祭礼行事の遊びとしての和船競漕、綱引き、力比べ、草相撲、みこしかつぎ、盆踊り、どんど焼き、たこ揚げ、鬼ごっこなどや、山登り、木登り。竹馬、石投げ、石けり。羽根つき、まりつき、合戦、遠泳、草や水遊び、その他山菜採り、潮干狩りなどかある。

 これらは、成人後にも楽しむ遊びもあるが、主に青少年時代の基礎体力をつくり、情緒やふるさとを育み、情操を培うための、通過儀礼的な野外文化活動である。しかし、社会的なねらいは変らなくても、その方法は時代と共に変化するものである。

 このように捉える野外文化活動は、日本ではごく当り前のこととして、研究も改善もされないまま放置されてきた。むしろ、戦後の教育では、国民の十分な理解を得ないままであった。しかし、これらの野外文化活動はいかに文明か進歩しようと、人間の本質が変らない限り、社会生活を営む構成貝の基本的な能力を育むために必要なことであり、青少年の非行化防止になくてはならない人間の絆を培うものである。

                 野外文化 第82号(昭和61年6月20日)巻頭より