文化としての離合集散(平成21年)
文化としての離合集散
1.整列できない子どもたち
「整列しなさい」
初日の朝の集いで2・3度叫んでも、なかなか整列しようとしない。整列の意味が分からないのかもしれない。
「ちゃんと並びなさい」
言い換えてみても態度は変わらず、個々ばらばらに立っている。順序良く並ぶ意識がないのかもしれない。
小学5年生から中学3年生までの異年齢集団による、1週間の生活体験学校を開校するに当たり、いつも苦労するのは集団行動での離合集散である。
今日の小学生や中学生は、隊列の組み方や整列の仕方を知らない。学校で教えられているはずなので、もしかすると知っていても指示に従わないのかもしれない。
パソコンや漫画、アニメーション等に関することはよく知っているのだが、集団行動をさせようとすると、のらりくらりと夢遊病者のような表情で、勝手な行動をする。まるで集団行動の教育を受けたことのない子どもたちのようで、秩序が整えられない。
2.誰を中心に開くのか
「体操のできる隊形に開け!」
4班体制に並び、2班の先頭のA君を中心に開けと指示を出す。ところが、そのA君が動いてしまう。何より皆が誰を中心に開けばよいのかを意識せず、個々バラバラに離れる。
ラジオ体操をするには、お互いにどのくらいの間隔で開けばよいのか、判断する基準が身についていないようで、1メートルも離れてなかったり、4~5メートルも離れてしまったりしている子がいる。
何のために、どのくらい開けばよいのか、立ち止まった所から前後左右を見て適当な場所へ移動しようとしない。自分の立っている場所が全体的に正しいのかどうかを判断しようとする気は、さらさらないのかもしれない。
「そんなに開かなくてもいいよ、もっと近寄りなさい」
30名くらいの子どもが思い思いに開くので、ラジオ体操の録音テープの音が聞き取れる範囲内に呼び寄せるのに時間がかかる。
やっとのことでラジオ体操を始めても、ラジオ体操の出来ない子が多くなった。知っていても、半分眠っているようで、しまりのない体操になる。
戦後の日本で、唯一全国的に共通した文化としてのラジオ体操であったが、今では教えない学校もあるので、誰もが知っている文化としてのラジオ体操ではなくなっている。ましてや、体操のできる隊形に開くことなど、受験教育には無用のことなのかもしれない。
3.前後左右へ倣え
「元の隊形に戻れ!」
ラジオ体操が終わり、散開していた子ども達に集合するよう指示する。
A君を中心に集まれと言っても、A君自身がその言葉の意味を理解できないのか、動いてしまうので集う基点がなくなる。
「A君は動いては駄目だ」
大きな声で指示されたA君は、急に直立不動になり緊張する。そのA君を中心に集合させても、前後左右を見て自分の位置が正しいかどうかを確かめようとしないので、列は乱れて雑然としている。
「気をつけ!」
気をつけの姿勢が分からないのか、なかなか両側に手を下ろして直立してくれない。
「A君を中心に倣え!」
或る者は右へ倣え、或る者は左へ倣え、そして前へも倣い、前後左右に自分の位置を確かめれば、きちんと順序正しく並ぶことができるはずなのだが、指示通りには動いてくれない。何より、私か指示する日本語の意味を十分に理解出来ていないようだ。
もう40年間も青少年教育活動を実践してきたが、私の話す日本語が徐々に通じなくなり、十数年前から子どもたちが離合集散の行動を上手くとれなくなってきた。
4.離合集散に必要な気配り
社会に規範が必要なように、集団行動における離合集散にも暗黙の了解事項が必要である。それは集団における共通認識としての価値観や風習等の生活文化である。
日本は、かつては世界でもっとも集団行動の得意な国民性があった。それは近代的な学校教育が始まる以前からある伝統文化としての気配りであった。その気配りが集団行動に必要な隊形を整える心得となり、見事に整列することができていた。
「右へ倣え!」「前へ倣え!」
集団を整列させるには絶対に必要な号令である。
まる1週間、毎朝号令をかけて離合集散の仕方を教えた。3日・4日と経つに従って、子どもたちは号令の意味を理解し、徐々に隊列を整えられるようになった。
最後の日の朝の集いでは、天気晴朗の下、子どもたち自らが前後左右を見て隊形を整え、きちんと順序正しく美しく並ぶことが出来た。
何をどうすればよいのか、その形のあり方は文化である。社会に必要な生活文化は、生後の見習い体験的学習や教育によって身につく。
機関誌「野外文化」第198号(平成21年1月20日)巻頭より