少子高齢化社会の泥棒たち(平成10年)

少子高齢化社会の泥棒たち

 平成10年8月22日、関西空港からトルコ航空イスタンブールへ飛ぶ。

 翌23日は日曜日で快晴であった。午前九時半頃、ガラタ橋のたもとから、3~4階建の石造りの家々が並ぶ旧市街の坂道を歩いた。ペルシア風のバルコニーが張り出している家の前で、テーブルを囲む男たちを撮影すると、お茶をすすめられた。

 33年前の早春、初めて訪れた時のことを思い出し、静かな街の古いたたずまいを眺めながら、ゆっくり上った。

 しばらく歩くと、日曜市の立つイスタンブール大学通りに出た。賑やかな市場の雰囲気を楽しみながら歩いていると、2人の若者がシャツを売りつけようと寄ってきた。首を横に振って断っても、なおも身体を寄せてくるので右手で2人を払いのけた。しかし、まだしつこく寄ってくる。「ノー」と強い声を出し、にらみつけて追い払った。その間僅か2~30秒のことであった。

 市場通りを右折し、イスタンブール大学前の広場で、皮袋からグラスに注がれたブドウ水を飲む。代金を払おうとポケットに手を入れると財布がない。その時初めて、シャツ売りの若者たちはスリだったことに気づいた。

 私は、これまで34年間、世界120ヵ国以上も訪れたが、まだポケットから財布を盗まれたことはなかった。だか、盗られた悔しさよりも、ジッパー付きのポケットから、素早く抜き取るプロ的技に感心させられた。

 泥棒は。今も昔も、どこにでもいる。特に、いろいろな人や民族が出入りした、シルクロードの町々は、不信社会の典型で、盗難は日常茶飯事であった。

 9月4日にコーカサス地方中央アジアの旅から帰国すると、日本は、北朝鮮のミサイル発射(衛星打ち上げ)と防衛庁背任事件でゆれていた。それに、住専問題、大蔵省接待汚職に続く、金融機関の「不良債権問題」が大きな政治課題になっていた。

 私は、これらのニュースに触れる度に、なぜかイスタンブールで財布を盗まれた時と同じ心持ちになった。北朝鮮のミサイル発射問題は外交的、防衛庁問題は行政的、不良債権問題は経済的又は政治的な泥棒たちの仕業にちがいない。

 そんな思いの中で迎えた9月15日「敬老の日」には、「少子高齢化社会」が話題となり、なんと65歳以上が2049万人となって、人口の16.2%を占め、15歳以下よりも多くなりつつあるという。それに100歳以上が10,158人もいるそうだ。

 寿命が延び、人生80年となっても、65歳以上は老人である。老人とは、多くの経験や知恵のある人を意味する社会的用語であるのに、今日の高齢者たちは、70歳になっても「老人」と呼ばれたくないという。彼らの多くが好む「熟年者」は個人的な言葉である。

 人は誰もが先祖たちの多くの経験や知恵を引き継いでいる。その“生きる知恵”をこの世に残すための努力や工夫をしようとしない人は、『老人』とはいえない。

 「敬老の心」は、老人たちが、古代からの知恵を青少年に伝えることによって、若い世代に自発する感情なのである。

 社会の高齢者が、個人的な熟年者だけで、文化伝承の役目を果たしていないとすれば、彼らは文化的な泥棒である。

 少子化による少年たちが問題になっているが、義務教育の先生方が、単に進級や進学のためだけに学校教育があると考えているとすれば、彼らは税金泥棒である。

 15歳以下の、まだ社会意識が充分でない子どもの責任は、保護者の親にある。子どもが泥棒などをしない、よりよい社会人に成長することを願わずに、義務教育を受けさせている親たちも税金泥棒である。

 今日の青年は、大変楽天的で個人主義の傾向が強い。特に、男子は社会貢献に消極的であるという。社会意識か弱く、権利と主張の強い青年たちは、社会的義務と責任の泥棒である。

 人間の生き方はさまざまであるが、最も容易で、低俗な生き方は、“美的、享楽的な生き方”である。無教養で貧しい人々にとっては、道徳心や倫理は腹の足しにはならない。だから、盗んででも欲しい物を手に入れようと思うのだろう。しかし、古代から「人はパンのみに生きるべからず」という倫理的な生き方が必要なために、教養を高めるよりよい教育が望まれてきた。

 日本は、これまで、世界に例のない“信頼社会”で泥棒が少なく、あらゆることに“頑張る人”が多かった。しかし、今では、平等主義と個人的欲望を満たすための享楽的文明社会と化し、自己中心的な泥棒天国となってしまった。

            機関誌「野外文化」第156号(平成10年10月26日)巻頭より